湯川秀樹旧宅の保存と活用に向けて
ー市民の会運動の到達点
湯川秀樹旧宅の保存と活用を願う市民の会
代表 岡田 知弘
(京都大学名誉教授)

湯川秀樹旧宅の由来

 下鴨神社の糺の森にほど近い下鴨泉川町に、湯川秀樹さんが1957年に購入し、1981年に亡くなられるまで暮らした住宅(以下、「湯川秀樹旧宅」と呼びます)があります。もともと、1933年に住宅として建設された建物を、戦後、占領軍が接収し、駐留軍の宿舎として使用していたといいます。湯川さんは、1949年に日本で初めてのノーベル(物理学)賞を受賞しましたが、その後、多忙を極めて体調を崩すことがあり、ゆっくり休める住宅を求めたといいます。そこで、庭もある同建物を入手し、居宅部分を修繕するだけでなく、荒れていた庭も庭師と相談しながら造園したという経緯があります。

 同居宅の本体部分や主庭部分は、意匠や近代建築物としての価値が高く、京都市によって2013年に「京都を彩る建物と庭園」、2019年に「重要京町家」に認定・指定されています。

湯川さんの思い入れ

 ちなみに湯川秀樹さんの『歌集 深山木』(1971年)には、この家に移り住んだ1957年4月に詠んだ、2首が掲載されています。

  移り住む庭広ければ草木(そうもく)にしたしむ心日々に深まる

  若き日に忘れしはずの老荘のよみがへりくるわれを怪しむ

 なお、露地門にかかる扁額「處静」「息迹」は、玄関にかけられていた「休影」とともに、湯川秀樹さんの自書です。これらは、いずれも、『荘子』にある文言です。

 『荘子』雑篇、漁父第三十一「人有畏影惡迹而去之走者、擧足愈數而迹愈多、走愈疾而影不離身、自以爲尚遲、疾走不休、絶力而死。不知處陰以休影、處靜以息迹、愚亦甚矣!」(訳)「自分の影を引きずって歩いている人の話、自分の影から離れようとした者がいた。どんなに早く走っても影はついてくる。これはまだ走り方が遅いのだと考えた。そこでさらにさらにと早く走る。とうとう疲れはて、木の陰にへたりこんだ。すると影から解放された。木の陰に入って、動かずにじっと静かにしていれば誰もついてこない。おかげで心身ともに落ち着いた。」

 家の外にでれば、様々な仕事が追ってきていた湯川さん。ひとたび居宅に帰って、この庭に佇んだり、庭の草木を愛でると、心も落ち着き、新たな創作活動に入ることができたということでしょうか。

旧宅保存に向けた「市民の会」の立ち上げ

 この湯川秀樹旧宅には、秀樹さんが亡くなった後も、ご遺族の皆さんが生活されていましたが、この間、不幸が重なり、旧宅の維持が難しい状況になっていました。そこで、2019年末から20年の春にかけて湯川秀樹さんの教え子である佐藤文隆京都大学名誉教授、坂東昌子愛知大学名誉教授が、尾池和夫元京大総長、山極壽一前京大総長、永田和宏京大名誉教授、九後太一京大名誉教授らとともに、湊長博京大総長に、京都大学が同旧宅を取得して、湯川秀樹さんの業績や暮らしぶりを後世に伝えるようにすべきだと提案するに至ります。

 これに呼応する形で、ご家族の鍼灸治療を通して湯川家と長い付き合いのある江上由香里さんやその友人の和田紘子さんをはじめとした女性グループが、ご遺族である湯川由規子さんの思いを具体化すべく、旧宅の保存活動に取り組みはじめます。私が、この市民活動に関わり始めたのは偶然の重なりのなかでしたが、20年1月に、市民の会準備会をつくり、中村和雄弁護士のサポートも受けて、20年3月1日に「湯川秀樹旧宅の保存と活用を願う市民の会」を立ち上げて、私が代表を務めることになりました。3月1日としたのは、湯川秀樹さんが、ビキニ事件が起きたこの日から、核兵器廃絶と世界平和のために積極的に「行動する科学者」として活躍されることに因んだものです。

 会則では、「この会は、日本で最初のノーベル賞を受賞された湯川秀樹さんが最期まで住み続け、学術研究活動だけでなく、非核平和活動、文化活動の場として国内外の多くの人々と交流された旧宅及び庭園・遺品類の保存と市民による遺品類の保存と市民による活用をめざします」という目的を掲げました。

 そして、その具体化のために、以下の4つの事業に取り組むこととしました。

  1.  ①湯川秀樹旧宅を保存 ・活用するために、京都大学や行政等に働きかける事業
  2.  ②湯川秀樹旧宅及び庭園・遺品類の調査及び現状保存に関わる事業
  3.  ③湯川秀樹旧宅及び秀樹・スミご夫婦についての講演会、見学会、学習会、企画展示会などの事業
  4.  ④上記の調査及び企画に関する情報発信事業
  5.  ⑤その他、前条の目的達成について必要と認められる事業

市民の会の活動

 もっとも、会発足時点では、京都大学が旧宅の取得に向けて動くかどうかわからず、市民の会としての要請文を湯川由規子さんの手紙とともに湊総長に送ったり、総長や担当理事に面談して要請するに留まりました。

 その後、2020年9月15日に京都大学が正式に、安藤忠雄氏の仲介で、長谷工コーポレーションが湯川秀樹旧宅を購入し、それを京都大学に寄贈したことを発表します。併せて、安藤忠雄建築研究所と長谷工コーポレーションによる新湯川邸整備計画を発表します。この動きを見て、本会も翌16日に緊急記者会見を行い、初めてその存在を社会的にアピールしました。併せて市民の会として、会員を増やす取り組みも本格的に行うこととし、ホームページも開設しました。

 https://www.yukawa-simin-k.com/

 一方、市民の会として、前述の京都大学総長経験者や湯川門下の研究者の皆さんを顧問にお願いしたところ、みなさん快く引き受けてくださいました。市民の会の会員も増えていく中で、京都大学の担当理事や担当部署と複数回にわたり懇談も重ねてきました。

 そこでは、①現状の旧宅と庭をできるだけ維持する形で新湯川邸を整備すること、②新湯川邸を、私たち市民の会だけでなく近隣住民にも開かれたものにすること、③湯川秀樹旧宅の遺品類については、物理学分野以外の資料類を含めできるだけ広く保存し、活用できるようにすること等を京都大学に重ねて求めるとともに、湯川由規子さんからの委託を受けて、旧宅所蔵資料の簡易目録づくりと遺品類の処理・処分を、会員ボランティアのご協力も得ながらすすめました。

京都市建築審査会での審議に向けた取組み

 本年1月に入り、京都市建築審査会に、旧湯川秀樹旧宅に関わる案件が付議されると聞き、3月末日にかけて、旧宅及び庭園、遺品類の現状保存について京都市及び京都大学に、役員を中心にして頻繁に働きかけをおこないました。

 私たちが最も懸念したことは、当初構想されていた新湯川邸の建築イメージがあまりにも湯川秀樹旧宅と異なっており、下鴨神社近隣の閑静な景観との調和も乱されるのではないかという点と、湯川秀樹さんが愛した静かな庭の佇まいと居室を広く市民や次世代を担う若い人たちに追体験してもらいたいというご遺族である湯川由規子さんの想いが具体化されないのではないかという点にありました。

 そこで次の焦点は、新湯川邸がどのような建物になり、京都市がそれに対してどのような対応をとるかということになりました。本年、2月17日には京都市建築審査会が開催され、初めて新湯川邸の設計図や管理運営体制について明らかになりました。同審査会では、京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例に基づく意見聴取がなされ、同条例に基づく保存建築物登録がなされました。また、3月17日には2回目の建築審査会での議論がなされ、建築基準法の適用除外が認められました。

 建築審査会での審議開始にあたり、私たちはこれまでの主張をまとめた要望書を京都市建築審査会及び建築指導課宛てに提出するとともに、審査会の傍聴、情報公開手続きによる資料の入手と分析を行い、京都市や京都大学にも積極的に働きかけを行いました。

湯川博士とゆかりの深い建物と庭の保存が実現

 その結果、当初は、建物全体を解体して新築建物をつくる計画だったものが大きく変更され、京都市条例にもとづいて近代建築物として価値が高い建物部分と主庭、玄関等、「湯川博士とゆかりの深い部分を現地再生で保存」するとともに、老朽化が激しく近代建築物としての価値が低い部分は撤去し、一部増築する内容になったことが判明しました。私たちの取組みがどれだけ寄与したかはわかりませんが、基本的には由規子さんや私たち市民の会の願いが叶ったといえます。京都市からは、建築基準法の適用除外は、この工事手法と第一種低層住宅専用地域という用途規制への対応策であるとの説明を受けています。

 一方、新湯川邸の活用法については、京都大学の迎賓館的な役割を果たすことがメインとされており、

市民や他分野を含む研究者、次世代の若い研究者や学生による利用、見学等がどの程度できるのかについては不明なところがあります。私たちは、引き続き、湯川秀樹さんが多くの市民に自ら語りかけた姿勢を継承し、限られた人たちによる利用ではなく、できるだけ多くの人の利活用を可能にし、湯川先生の終の棲家で先生と間接的に触れ合えるように、引き続き京都大学に働きかけていきたいと考えています。

新資料類も発見、一括京大に寄贈

 なお、湯川秀樹旧宅に残された史資料については、市民の会として進めてきた粗目録づくりを3月までに終了し、無事、湯川由規子さんから京都大学に一括寄贈できる運びとなりました。自宅ということもあり、京都大学の湯川記念室にも存在しない初見の新資料類が次々と見つかりました。

 

 物理学分野だけでなく人文社会科学分野、核兵器廃絶平和運動に関わる史資料が、大量に所蔵されていたのです。小川秀樹の名前がある西田幾多郎『哲学概論』の講義ノートもありました。加えて内外の著名人からの書簡類、ノート、著作・講演原稿、写真、ビデオ類、そして日記や和歌、スミ夫人や中谷宇吉郎と共著の書画類などが膨大に残されていました。

 20世紀日本の最重要科学者の一人として、この京都で育まれ、京都大学の精髄を体現したともいえる人間・湯川秀樹が形成される全体像を知るための資料群が出現したといえます。今後、京都大学の中に、この貴重な史資料の保存、整理、目録化、情報発信、利活用について、専門的な委員会が一日も早く設置され、多くの人々が閲覧、活用できるような体制がつくられるよう、引き続き取り組んでいきたいと考えております。そして、これらの貴重な史資料群を長く京都大学で保存・活用し、湯川秀樹研究が大きく進展することを願いたいと思います。

おわりに

 以上のように、私たち「市民の会」が当初の目標については、かなりの程度実現することができました。今回、考えられるなかでは最良の成果を得ることができたのは、何よりも、市民の会の会員、顧問、そして会員外の市民の皆さんからの支援があったからこそだと考えています。また、京都大学や京都市の関係者のみなさんとの折衝のなかで、多くの方々が湯川秀樹さんを敬愛し、その居宅を京都の現地で保存、再生することに心から賛同し、誇りをもって積極的に動いていただいていることを改めて知りました。

 

 「湯川秀樹は、今も生きている」と、私たち一同強く感じた次第です。どうか、これからも市民の会の活動へのご協力、ご支援をよろしくお願いいたします。最後に、湯川秀樹さんの座右の銘を添えておきます。

「一日生きることは 一歩進むことでありたい」