Ⅰ 松明の火をつなぐ
- 真のジャーナリズムとアカデミズムの源流・京都の地から-
岡田知弘(京都大学名誉教授・京都橘大学教授)

はじめに

 1988年に創刊された『ねっとわーく京都』が33年の歴史を閉じることになった。当時、私は京都大学の大学院を修了し、岐阜県の私立大学に就職していた。風の便りで、京都市職員労働組合が中心になって、『ねっとわーく京都』という雑誌が発刊されることになったと聴き、大いに胸が躍ったことを思い出す。バブル景気に沸く京都で、街と景観の破壊がすすみ幅広い市民を巻き込み、景観論争にまで発展していたころであった。その京都市で何が起きているのか、市の行財政や産業界、市民生活の動きをまとめて伝えてくれる定期刊行物は、地域経済や地域政策を研究対象としていた私だけでなく、多くの心ある市民が素直に期待していたといえる。そして、1989年の市長選挙では、自民・公明・民社党が推す田辺朋之候補を、革新無所属の木村万平候補が321票差まで追い詰めることになった。

 その後、私も何度か執筆の機会があったり、京都大学の学生ゼミナールで地域調査をする際の参考文献として『ねっとわーく京都』は、空気のような存在として、当たり前に存在していた。その雑誌が、突然、事実上の廃刊となると聴いたときのショックは、家族が余命宣告を受けた時と同じくらいの衝撃であった。

 だが、コロナ禍で多くの人々が苦しむ一方で、人々の命とくらしよりも自らの利益を貪るために、さらに京都の街を壊し、自治体や国の行政を私物化しようと「蠢いている」輩が暗躍している状態を放置しておいていいのだろうか。個人の感傷に浸っている状況ではない。むしろ、かつて同誌の発行責任者でもあった池田豊氏と議論していくうちに、『ねっとわーく京都』に代わる新しいジャーナルを、紙媒体よりももっと多くの人が読んだり、投稿することができ、それをもとにした議論や行動に結びつきやすい情報媒体を、インターネットの網を活用しながら発行してみてはどうかということになり、同志も集まった。そして、いよいよ発刊の運びとなった。

 もっとも、『ねっとわーく京都』の代替物をつくるということだけなら、情報媒体としての持続性も、可能性も、夢もない。編集人としての面白さもない。なぜ、いま、京都の地で、新たな情報媒体が必要であり、かつ、日本だけでなく、世界にも発信できる内容を備えたものになりえるのかということを、歴史を振り返りながら、私見を述べてみたいと思う。