上田から始まる自由大学100周年―私たちのはてしない物語2021-
佐藤一子(社会教育研究者・東京大学名誉教授)

はじめに

 2021年9月11日に上田自由大学100周年を記念するシンポジウムが長野県上田市で開催されました。上田市教育委員会の主催で上田小県地域に根づく民衆の自己教育運動100年の歩みと継承の課題を考えるつどいです。上田小県地域では、京都帝国大学教授西田幾多郎のもとで学んだ哲学者土田杏村の協力をえて、農村青年たちが1921(大10)年に信濃自由大学(のち上田自由大学)を創設しました。上田自由大学は、大正デモクラシーの精神の担い手を育んだ自発的な民衆教育・自己教育運動の源流をなしています。自立的な人格の形成と学問探究のための自主的な学習機関として1921(大10)年から1930(昭5)年まで9年間(1年間休止)継続し、長野県内9カ所以上、さらに東京、新潟、福島、宮城、北海道、青森、京都、群馬、兵庫へと広がりました。

 100周年記念シンポジウムの基調講演とパネル討論を通じて、当時の大学研究者・知識人と農村青年たちが自立的な学びの場を創造して「民衆と学問」という根源的な課題に向き合ったこと、その学びの土壌が色濃く今日に受け継がれていることが浮き彫りにされました。新型コロナウイルス感染症感染防止のためシンポジウムは無観客での開催となりましたが、地元ケーブルテレビが録画し、市のHPで公開されました。私もパネリストの一人でしたが緊急事態宣言のため参加できず、メッセージを送りました。ねっとわーくKyoto-Onlineの読者の皆様に上田自由大学についてご紹介し、自由大学100年の歩みについて考えたいと思います。

農村青年と土田杏村の出会い―自由大学の創設

 自由大学の設立・運営を担ったのは、上田小県の神川村で後に村長となる金井正、青年団、信濃黎明会の活動をしていた山越脩蔵、信濃黎明会で山越に出会った猪坂直一など、養蚕業に従事しながら社会改造に関心を持ち、「社会人として生きる方向」を模索していた青年たちでした。画家山本鼎はパリ留学後父親が医院を開業していた上田に住み、児童の自由画を提唱します。青年たちはその影響を受け、農民美術運動にも協力します。

 1916(大5)年、金井の発案で信濃教育会小県支部の夏期講習会に西田幾多郎を招き、3日間の講演が行われました。その後神川村青年団の山越が土田杏村を招いて哲学講習会を開催し、2回目は5日間の講習会に60名以上の聴講者が集まりました。

 文化学全般について講座を開催し、系統的に学ぶ場を創りたいという青年たちの動きに土田が協力し、自由大学が創設されます。土田は「考える人間、批判力のある人間をつくりあげていかないとこの世の中はよくならない」という信念にもとづき、信濃自由大学開講の趣旨を次のように書いています。

 「学問の中央集権的傾向を打破し、地方一般の民衆が其産業に従事しつつ、自由に大学教育を受くる機会を得んがために、総合長期の講座を開き、主として文化学的研究を為し、何人にも公開する事を目的と致します。従来の夏期講習会に於ける如く断片短期的の研究となる事なく統一連続的の研究に努め、且つ開講時以外に於ける会員の自学自習の指導にも関与することに努めます。」

 大正期には夏期大学や大学公開講座など大学拡張が広がりますが、上田自由大学はその系譜とは異なる独自の自主的な学習機関の創設であり、哲学、哲学史、倫理学、美学、社会学、心理学、宗教学、文学、教育学、法学、経済学、社会政策の12講座を開設し、3~4年で1講義を完了するという計画でした。1921(大10)年冬から翌年春に開設された1学期の講座では6人の講師が計31日間の講義をおこなっています。聴講者数は1講義約30名から60余名でした。

 1学期の講師陣のうち出隆(東京帝国大学出身)を除く5人は京都帝大の出身者で、恒藤恭は当時同志社大学法学部教授のち京都帝大法学部教授となり、滝川事件に際して他の教員と共に抵抗して辞表を提出し大学を辞しています。タカクラ・テル(高倉輝)は、京都帝大卒業後に大学の嘱託となりますが、のち作家として活躍します。高倉はもっとも人気の高い講師で、上田の借家に住み、9年間、全7学期の講師を務めました。

 新潟県魚沼自由大学をはじめ各地に自由大学が広がる動きを受けて金井や山越たちは1924(大13)年に自由大学協会を設立し、高倉も協力します。機関誌『自由大学雑誌』を発行し、自由大学の理念が全国に発信されます。京都出身でのち労農党代議士となる山本宣治も、京都帝大理学部講師、京都労働学校の校長として自由大学の普及に努めました。しかし運営上の困難により、上田自由大学は1926(大15)年春、5学期終了後一次休止、1928(昭3)年に再建されて1930(昭5)1月まで2学期開設されましたが、2学期とも2講座にとどまりました。山本宣治が1929(昭4)年に右翼に刺殺され、官憲の圧力が厳しくなるとともに、生糸の暴落、農村恐慌のなかで農民が困窮し、上田自由大学は幕を閉じました。戦後直後に再建されますが、1年で終焉しています。

自由大学から「学びとは何か」を継承する

 上田自由大学は社会教育史や近代現代史の重要な研究対象ですが、地元の上田市でも研究者・市民による地域史研究グループの資料収集・記録化を通じてその実像が明らかにされ、地域研究・学習実践として継承されてきたことが注目されます。

 上田小県近現代史研究会代表の小平千文氏、今回のシンポジウムで基調講演をおこなった長島伸一氏(長野大学名誉教授)をはじめ、地元の研究者や社会教育・図書館関係者が、自由大学の精神を原点として「民衆と学問」を追求し、市民の自主的な研究・学習実践として継承するうえで重要な役割を果たしています。長島氏の基調講演「上田自由大学から学ぶ」では、自由大学の講師を務めた中田邦造と高倉輝に焦点をあて、自立的な教育運動としての自由大学の学びの実相に迫り、この地に根づく学習文化の土壌の豊かさを再発見するような内容でした。

基調講演 長島伸一氏

 中田邦造は1920年代に京都帝大で西田幾多郎に学び、卒業後石川県立図書館長、東京都立日比谷図書館長などを歴任し、1950年代には日本図書館協会の顧問を務めて日本の公共図書館の礎を築いた人物です。長島氏は、その中田が学生時代に「哲人村」といわれた上田小県地方の神川村で夏休みを過ごして金井、山越らと出会い、1学期に講師が休講した時、急遽3日間の代講を経験したことから、中田の図書館社会教育実践と自由大学の精神が深く交錯していく過程を描き出しました。中田が著書『公立図書館の使命』(1933)で述べている「教育の中核は自己教育にある」という考え方は、「自己教育が即ち人間として生きることであり、人間として生きることが即ち自己教育である」という土田杏村の自由大学論と深く響きあっています。長島氏は、自由大学運動から「学びとは何か」を学びとることが大事であり、それは「分からないことを見つけ出し、自らの回答を用意する試み、それが“学び”である」と述べて、「学び続けることの愉しさ」をあらためて提起しました。100周年記念シンポジウムのサブタイトル「私たちのはてしない物語」の奥行きの深さを語りかける講演でした。

地域に根づく「学び続ける」土壌

 パネル討論では、(一社)つながりのデザイン代表理事船木成記氏をコーデイネーターとして上田社会教育大学学長の尾崎行也氏、(株)バリューブックス取締役の鳥居希氏、上田映劇ボランティアスタッフのやぎかなこ氏らの実践報告がありました。40周年を迎えた上田社会教育大学はPTA母親文庫を母体に女性会員が歴史研究科、地域・地理学科、文学科ゼミナール、サークル上田鑑などの組織で継続的に学び、地域の史学会誌への発表や古文書研究、学習記録の発行を続けています。他のパネリストも古図書の価値、討論の場づくり、若者の発信など、読み、学びあい、対話する学びの愉しさ、奥深さを語りました。

 上田では社会教育関係団体として、民俗研究会、郷土史研究会、ことぶき大学・大学院、生涯学習・上田自由塾、文化財研究会など地域史研究・市民大学的団体が多彩な活動をしています。あらためて自由大学100年の豊穣さが地域の土壌として継承されていることを実感しました。

 自由大学を創設した青年たちは、真実を探求し人間的な創造力を培うことこそが、主権者として主体的に社会と関わるうえでもっとも重要なことだと考えました。1985年、ユネスコ第4回国際成人教育会議で「学習権宣言」が採択されます。自由大学の精神は、21世紀の国際社会において人類の生存、持続可能な社会を支える学びの保障としての学習権の理念に通じるものであると思います。上田自由大学100周年記念シンポジウムは、「私たちのはてしない物語」の新たな一歩となりました。

(参照文献) 小平千文・中野光・村山隆『上田自由大学と地域の青年たち』上田小県近現代史研究会、2004年