【浜通りを訪ねて ① 福島県新地町】
9月8日~10日の3日間、歴史学研究者主体の「『生存』の東北史」研究会の有志メンバーで、福島県浜通り地域を調査してきました。この研究会は、東日本大震災をきっかけにつくられたもので、震災直後から、宮城県気仙沼市、岩手県陸前高田市、福島市で、現地のみなさんといっしょにフォーラムを開催し、地域の歴史を学ぶことによる震災復興のあり方を調査、研究し、被災地のみなさんと議論する試みを10年以上続けてきました。その成果は、大門正克・岡田知弘・川内淳史・河西英通・高岡裕之編『「生存」の東北史―歴史から問う3・11』大月書店、2013年、及び同上編『「生存」の歴史と復興の現在―3・11分断をつなぎ直す』大月書店、2019年の2冊の本として発表してきました。
しかし、これまで福島第一原発被災地が広がる福島県浜通り地域での現地調査は、研究会としてはできていませんでした。そこで今年3月に調査を計画し、現地の皆さんとも必要な調整も終わっていたのですが、突如の地震のために移動も滞在もできなくなったため、調査を延期していた経緯がありました。私個人にとっても、岩手県釜石市から陸前高田市、宮城県気仙沼市から山元町までは、何度か現地調査に出かけて、その被災と復興の様子は、ある程度把握できていたのですが、福島県浜通り地域に足を踏み入れるのは初めてでした。
そこで、この場を借りて、3回にわけて調査の様子を報告したいと思います。
9月8日朝、仙台駅から、調査事務局を担ってくれた東北大学の川内さんが運転する自動車で一気に福島県新地町に入りました。雨のなか、再建されたJR常磐線新地駅の海側にある釣師浜漁港を視察してから、新設された新地町文化交流センターで、元町職員の菅野さんと震災以来東京からボランティアで入っている秦さんの話をお聞きしました。
印象的だったのは、①菅野さんによれば、それまで津波に対しては、1960年のチリ地震津波の経験で波が引いたとき沢山の魚が獲れるので子ども心に楽しい思い出をもっていたそうです。今回は、それもあって住民に警戒心があまりなく、海岸集落で犠牲になった人が多かったのではないかということ、②福島第一原発事故後、相馬市や浪江町の方から避難してくる人が増え、とくに漁師さんたちの中には陸上の生活に馴染めず元気を失う人が多かったこと、③新地町にはかつて聖公会の磯山聖ヨハネ教会があり、その近くに東北帝国大学医学部とのつながりで療養所もあったこと、④教会は埒浜のすぐ近くにあり、震災後、高知県や和歌山県から震災直後にみかんが送られてきたことをきっかけに、その教会跡地の近くにかつて住んでいた人や小学生によって北限のみかん園がつくられていること、という点です。
その話を聞いた後、埒浜に車で案内していただきました。津波被害による居住制限地域となっているため、集落の姿は跡形もありません。そのなかに福田小学校のみかん園の看板がありました。みかんの木は、まだまだ小さいですが、それでも昨年は収穫ができたそうです。
お昼は、新地町の内陸部にある秦さんの友達のご自宅へ。10代も続く豪農の家柄のようで、80歳を超えるご主人が手打ちした蕎麦や郷土料理を美味しく頂きました。秦さんとは、ボランティア活動を通して知り合ったといい、10年の間に家族のような信頼関係ができていることがわかりました。秦さんは、聖公会の関係で、震災直後から新地町に入っていたそうです。自分の無力さを感じて、途中何度かボランティアを辞めようと思ったことがあったそうですが、今は、ただ友達に会いに行き、寄り添うことでいいんだという思いに到達して、東京から不定期に通っているそうです。他のボランティアの人たちや団体が、途中で新地町からいなくなったり、他の被災地に移る中で、なかなかできないことです。
午後からは新地町の大戸浜コミュニティーセンターを訪問し、気仙沼出身の民俗学者である川島秀一さんと、川島さんの「師匠」にあたる漁師の小野さんのお話をかがいました。川島さんは、東北大学を退職後、新地町に移り住み、小野さんの船に乗って漁師を営んでいます(詳しくは川島秀一『春を待つ海―震災前後の漁業民俗』冨山房インターナショナル、2021年をご参照ください)。
川島さんには、私たちは、気仙沼フォーラム以来、お世話になっていますが、漁師らしく日焼けし、いっそうお元気なご様子のうえ、本も執筆されているということで、話の内容とともに川島さんの研究者としての姿勢に感動しました。というのも、フィールド調査をする際に、研究対象である人たちのなかにどれだけ入り込み、地域に関わるかは、民俗学、人類学、地域経済学、社会学を問わず、研究者として大いに悩む点です。川島さんは、東北大学を退職後、思い切った決断をし、漁村に住み、漁業者としてハマの言葉や作法、漁船での作業や生活を体験することで、初めてわかる世界があるのではないかと考え、積極的に漁業や漁村、漁師に関わりはじめたということでした。
一方、小野さんは、新地町の釣師浜で50年以上漁師を続けてきた方です。津波で集落がなくなったうえ、現在も「放射能」のために震災前のような漁ができない福島沖の海の現状を見て、「このままではハマの暮らしを子や孫に託していくことができない」と考え、「川島先生に釣師浜の歴史を書いてほしい」思い、川島さんを乗組員の一人として受け入れたとのことでした。
川島さんからは、かつての新地の漁業の様子やハマの言葉の由来、結いの精神の存在から始まり、震災と原発事故後の魚の獲れ方の変化(個体の巨大化と暖流魚の増加)、さらにトリチウム汚染水の海洋投棄問題を第五福竜丸が被曝したビキニ事件、水俣病と魚の大量廃棄問題と繋げながら、鋭く批判されました。
小野さんは、津波襲来時の漁船の避難と「結いの精神」による助け合いの具体的な話、そして放射能汚染によって本格操業ができない、また展望すら見いだせない漁業の将来への憤懣を語ってくれました。とりわけ、汚染水の海洋投棄については、「政府は、『海は魚を獲る所』という認識しかもっていないのではないか、海は命の源であり、海も陸もすべて繋がっており、
海を汚すことで、未来が展望できなくなるんだ」と力説。岸田首相の原発推進姿勢も強く批判されていました。
お二人の迫力のある話をお聞きし、明日の相馬での調査に備えて、夕方、相馬市の景勝地である松川浦にある宿泊先に移動しました。(つづく)