【浜通りを訪ねて ② 相馬市・南相馬市から富岡町へ】
調査2日目の9月9日、昨日までの雨も止み、松川浦県立自然公園のなかにある宿からは日の出こそ見えませんでしたが、福島県唯一の潟湖である松川浦が一望できました。ここは、万葉集にもでてくる景勝地で、日本百景のひとつでもあるそうです。また、文字島という美形の小さな島もあり、「小松島」という異名もあります。
夜明け前からエンジン音が響き、カーテンを開けると、漁船の姿が。のりを採っているのでしょうか。松川浦の「あおさのり」は絶品です。宿の夕食、朝食にも、たっぷり使ってありましたが、まったく飽きませんでした。泊まった宿も、被災したとのことですが、家族でがんばり、わりと早く営業を再開したとのことです。
ところで、昨日、新地町から移動したときも気になっていたのですが、相馬市に入るとブルーシートを被った家が目立ち始めました。東北大の川内さんによると、今年3月16日の地震(相馬市で震度6強)で建物被害が1000棟以上でてしまい、その復旧ができていないとのことでした。その前の2019年10月に、台風等によって二度にわたる水害もありましたので、東日本大震災以後、二重、三重の災害に遭遇しているところだと改めて認識しました。
もうひとつ、海岸側に露出した崖に、掘削した横穴がいたるところに見えて、不思議に思いました。宿の女将さんに聞いたところ、昔は製塩をしていたところでもあったので、塩の製造や保存のために使っていたのではないかということでした。浜通りの製塩については、3日目に訪れた富岡町のアーカイブ・ミュージアムで確認することができました。
午前中は、浜の駅・松川浦を訪問し、相馬市を起点に展開するスーパーマーケットグループの「フレスコキクチ」(ちなみに、京都のフレスコとは、何の関係もありません)の会長を務めながら、東北地方に展開するスーパーマーケットの共同仕入れ事業を行っているマークスホールディングスの社長も務める菊地逸夫さんのお話をうかがいました。菊地さんには、これまで中小企業家同友会の集まりでご一緒したり、京都大学のシンポジウムに来ていただいたり、私個人としては長くお付き合いさせていただいていますが、他のメンバーとは初対面。海岸部の震災復興の拠点として整備された浜の駅の出資者でもあり、副社長でもあるということで、同駅にある開業前のフードコートでお話を聞くことにしました。
菊地さんの祖先は、近世以来、相馬中村城下で米屋を営む家系でしたが、戦後、お父さんの代になって味噌醤油醸造業や酒販店を創業、1958年にセルフサービスを導入し、スーパーマーケットへと事業転換します。菊地さんは大学卒業後に他社で経験を積んだ後に入社し、社長の後を継いだとのこと。震災直後のフレスコキクチの各店舗の、店長判断による対応やその後の事業展開のあり方まで、じっくりお話をうかがうことができました。
特に印象に残ったことは、震災後、とりわけ福島第一原発事故後も多くの人々が南相馬市から新地にかけて残っていたにもかかわらず、福島第一原発30キロ圏では住民に食料や水、各種生活必需品を供給するお店も物流ルートも、燃料も途絶えてしまっていた点です。
この事態をみて、菊地さんや店長さんが経営理念としていた「建てた店舗に責任をもつ」という考え方に基づいて、中小企業家同友会の仲間の支援で、バス、トラック、燃料、物資の供給を得て、停電から免れた相馬店をオープンします。開店時間前から、たくさんの住民が集まり、開店が遅いというクレームはなく、むしろ多くのお客さんがお店の再開を喜んでくれたというお話を聞きました。なんど話を聞いても、目が潤んできてしまいます。関東に本社のある大型店がすべてシャッターを下ろしてしまうなかで、大災害の時代においてどんなお店が必要なのか、とてもよくわかる史実だといえます。
もうひとつ今回初めて聞いた話がありました。それは、菊地さんたちが相馬の土地と歴史に抱く愛情です。実は、以前から、菊地さんから相馬野馬追に来るように誘われていたのですが、そのときは大型の地域イベントという認識しかありませんでした。ところが、これは、近世から続く軍事演習のようなもので、鎧も馬も旗も相馬藩以来の家来衆が、個々の家で継承してきたものだったそうです。相馬中村藩は、近世から国替えのない数少ない藩の一つで、それだけ地域の歴史文化的一体性ができているのではないかと思います。
面白かったのは、フレスコキクチの店舗展開が、震災後、浜通りを超えて宮城県南部に進出していることについて、もちろん消費者人口の動向を前提にしながらも、「伊達に攻め込んでいく思いからだ」と菊地さんが表現されていた点です。これには、歴史的視点を重視している調査メンバー一同、「なるほど!」とうなってしまいました。
菊地さんは、その後、仕事のため大船渡に向けて車で移動されましたが、忙しい合間に時間をとっていただき、数々の話をおうかがいすることができました。しかも、昼食のためにお店に戻ってくると、お土産まで準備されていました。感謝しかありません。それにしても、お店は海鮮料理が中心ですが、普段から利用されている近所や職場の人、さらに観光客までが訪れ、賑わっていました。物販のところも、水産物をはじめとして取り揃えてあり、楽しめます。
この道の駅から歩いてすぐのところに、相馬市伝承鎮魂祈念館があります。原釜海水浴場の近くにありますが、道からはちょっとわかりづらいところに建つ平屋の建物です。相馬市では、原釜地区を中心に458名の方が東日本大震災の犠牲になったそうです。入口近くには、小さなお地蔵さん458体が飾ってあり、祈念館内にはかつての原釜の町や漁村風景を写した写真が展示してあるほか、津波災害前後の動画も見られます。かつての記憶を記録として残そうという考え方が形となっています。
南相馬市に向かう途中、今週の地震災害とその後の歴史史料のレスキューに携わった川内さんの案内で、城下町をゆっくり走ってもらいました。確かに、地震の爪痕がいたるところに残り、家屋が撤去されたあとの空き地や、ブルーシートに覆われた家がありました。解体が必要な家が市全体で1000戸近くになるとか。揺れの程度は、誰に聞いても、3.11よりも激しかったということでした。歴史的な町並みやそのなかに保存されている貴重な歴史史料を保存するために、このたび相馬市に史料ネットワークができたというニュースも調査を終えて入ってきました。なんとその事務局は、相馬商工会議所に置かれるとのこと。川内さんによると、経済団体が中心になるのは初めてのことではないかと。やはり、地域ととともに歩んできた地元企業有力者が集まる相馬の商工会議所ならではのことではないかと思います。
南相馬市に入る前に、フレスコキクチ相馬店にもお邪魔しました。震災直後のドラマの現場ですが、お店のなかも歩きましたが、近所の高齢者を中心に日常を取り戻したように買い物をされながら、お店のスタッフと会話されているところみると、ほっこりします。
それから1時間近くかけて、南相馬市の小高区井田川で「みうらファミリー農園」、合同会社「みさき未来」を営む三浦広志さんの農場を訪ねました。井田川は元々干拓でできた湿田地域で、震災前は水田が広がる農村地帯だったそうです。しかしながら震災による津浪により、集落は壊滅してしまいました。しかも、福島第一原発から20キロ圏内ということもあり、住むことも、営農することもできなくなりました。
三浦さんは、一時東京に避難した後、南相馬市鹿島区にできた仮設住宅に移り、最終的に営農をしたいと希望した息子さんの声もあって新地町に移住し自宅を再建、農地も確保します。そして、農民組合である「農民連」の活動にも積極的に参加し、政府や東電との賠償交渉、風評被害対策としての「全量全袋検査」を実現します。また、井田川で生まれ育った三浦さんは、故郷の農業、農地を取り戻すために、政府や県の補助金も活用して、新たな挑戦を次々と実現してきています。
太陽光発電を利用した「エネルギーの地産地消」の取り組みや、ロボットを活用した「スマート農業」などの導入を通して、集落の農地の復元に努めている行動力と交渉力、具体化する力には、驚嘆してしまいます。三浦さんは、自分のエネルギーの源は、「美味しいものを食べる幸せ、作る幸せ」だと繰り返し述べて、10年後にこの井田川がどうなっているか、ぜひ、見に来てほしいと言われました。
こんなバイタリティ溢れる三浦さんですが、その家の歴史をお聞きすると、曾祖父が小作争議をした人物であったとか、1960年代に小高原発問題が浮上した際に、家をあげて原発反対運動に取り組んだという話もありました。地域を愛するが故の反骨精神が、今の三浦さんのチャレンジングな活動の源泉のようです。
以上のような話を、事務所として使っているトレーラーハウスのなかで、じっくり聞かせていただきました。三浦さんは、このあと、福島大学の大学院進学についての面接があるそうで、そのあとの福島大学との連携も見据えていました。こんな三浦さんの周りには、全国から若い人たちが集まり、農業の復活に関わるプロジェクトに参加しているそうです。それも、納得です。
三浦さんの事務所を辞した後、調査チーム一行は、国道6号線をひたすら南下し、この日の宿泊先である富岡町に向かいました。浪江町からは至るところで工事が行われ、北行車線は随分渋滞していました。道路標識の横には、放射線の空間線量率がわかる電光掲示も。また、11年前の避難時から放置されたままのお店や建物も見えました。さらに、それまでの建物を居ぬきにして、工事事務所としているところも目立ちました。途中、つい先日オープンしたばかりの双葉町役場に立ち寄りました。従来よりも内陸部に入ったJR双葉駅前に建設されていました。
そこから、大熊町内で福島第一原発を遠目に見ながら、富岡駅前のホテルに投宿しました。途中、いたるところに検問があり、とくに浜側への進入路には入れない状況でした。宿は比較的混んでおり、多くは工事関係者でした。かなり長期滞在している人も多いようですし、何よりも朝食が5時半から始まっていることに驚きました。町の様子も、工事の段階も、住民の帰還についても、三陸海岸地域とまったく違っていることに強い衝撃を受けました。(つづく)