戦犯処刑された叔父
―加害の「廣島」を考える 2

橋本 和正(広島自治体問題研究所)

裁かれた戦争犯罪

 シンガポールやマレー半島での住民虐殺について、イギリス軍は終戦を待たずに情報収集を始め、戦争犯罪人のリストを作成して、終戦になれば直ちに戦争犯罪を裁けるよう準備しました。そこは植民地の支配国・宗主国としての威信もあったといわれています。法曹資格をもった軍人が裁判官になり、検事役もそういう人達が担う、被告には弁護士と通訳をつけて行われました。そのため、スタッフを整えて裁判を始めるには時間がかかったようです。

 シンガポールでの裁判は1946年1月21日から、私の叔父が裁判を受けたクアラルンプールでの裁判は1月31日から、ラングーンでは3月22日、香港では3月28日、ラブアン(北ボルネオ)では4月8日と、イギリスの戦争犯罪を裁く裁判は次々と開廷されていきます。イギリスのアジアでの戦犯裁判は、シンガポール裁判開始1946年1月21日に始まり、香港裁判終了1948年12月20日までかかりました。

 戦争犯罪の裁判は一審制で行われました。私の叔父も裁判を1947年10月から始まり、有罪・死刑判決を受けて、それで裁判は終わりです。その後、裁判記録を本国などに送付し審査され、妥当と判断されれば判決が執行されました。 

 シンガポールでの取り扱い件数131、被告が465人、死刑判決が142人、死刑確認112人です。私の叔父が裁判を受けたクアラルンプールで取り扱い39件、被告数が62人、死刑判決が20件で、死刑が確認されているのが18人とあり、この18の中の一人が叔父の忠です。

 叔父・忠の「スンガイルイ事件」の場合、バハウに駐屯し、1951年8月、マレー人の誘拐事件があって誰が調査に行ったか、現地の人には叔父の名前と顔は知られていたと思われます。

 叔父・忠は1945年秋を待たず本籍地の広島県廿日市(現廿日市市)に復員し、若林開拓団(現北広島町吉坂)に入植している先で逮捕され、巣鴨刑務所を経て、クアラルンプールに送られて尋問を受け、調書も作成されました。現地の証人調査もされたでしょう。1947年10月に裁判を受け有罪が確定しました。翌(1948)年の元旦に翌日の刑執行が告げられ、1月2日に処刑されました。それが「スンガイルイ事件」の結末です。

 イギリス軍による戦争犯罪者に対する裁判の特徴は、現地においてそれぞれの住民殺害事件に直接関与した部隊の責任者が裁かれたことです。軍の上層部にいて命令をした司令官や作戦参謀たちは、裁かれてはいません。誰に責任があるのか、ある意味では、不十分な裁判と言えるかも知れません。しかし、住民の目の前で繰り返し行われた住民虐殺は、住民の告発と証言で十分裏打ちされた事実です。

「偽装病院船」橘丸と第5師団の最期

 1942年12月から翌年1月にかけて、叔父・忠は部隊の移動に伴ってインドネシア方面にも行ったようですが、イギリスやオーストラリア軍の反撃に備えて、豪北の島々に駐屯していました。日本軍の戦況の悪化により、制海権を奪われ、移動手段も失って遊軍状態だったようです。

 終戦が迫った1945年8月3日、「病院船」橘丸がアメリカの駆逐艦によって拿捕されます。「病院船」というのは偽装で1562人の将兵が乗っていました。しかも小銃、弾薬等を隠して積んでいました。第5師団の基幹部隊である第11連隊の第一、第二大隊の隊長以下全員、山口第42連隊の一個中隊が乗っていました。この中の一人に私の叔父・忠もいました。患者の名前も、カルテも偽物、患者の白衣まで偽装して身に着けていました。日本軍の情報も傍受されていたようですが、出港して直ちに追跡され駆逐艦「コナー」に臨検を受けて、赤十字のマークの入った箱に銃や銃弾が隠されていて、病院船でないとして拿捕され、米軍の捕虜としてフィリピンで終戦を迎えたようです。この偽装病院船事件とともに第5師団歩兵第11連隊の「最期」を迎えたのです。

「偽装病院船」橘丸に積んであった第7中隊の陣中日誌など軍の公文書はアメリカに押収されてしまいました。

 この陣中日誌などが1986年頃に日本に返還され、林博史さんの「華僑虐殺」は、陣中日誌の記録を調べ、現地の住民の証言と一致しているかどうかを調査しまとめておられます。また、イギリスの戦争裁判の記録も調べ、その全容をまとめておられます。その一つが「裁かれた戦争犯罪」であり、私の叔父の「スンガイルイ事件」裁判記録です。

華人虐殺の地 マレーシア訪問 緊張の連続

スンガイルイ村住民虐殺追悼碑

 何としても現地マレーシアを訪問してみたいと考え、林博史先生にメールで相談したところ「アジア・フォーラム横浜」の「東南アジア戦跡ツアー」を紹介されました。そこで「住民虐殺」から70年の節目の2012年の夏の「アジア・フォーラム横浜」のツアーに参加することしました。

 「アジア・フォーラム横浜」には、スンガイルイ事件で刑死した橋本忠の甥であることを明らかにして、ツアーに参加申し込みをしました。ツアーの案内役をされていた高嶋伸欣氏には、驚きの参加者であったようですが、ツアー行程に私の個人的な想いを組み込んでいただき高嶋伸欣先生と現地のコーディネーター楊佐智さんそしてツアー参加の皆さんにはご迷惑をおかけしました。

 高嶋先生から「現地の人々も世代交代しているし、心配するようなことはありませんよ。」と聞かされました。しかし、戦犯・橋本忠の「甥」である私はツアーの出発時から緊張していました。8月12日(現地初日)のネグリセンビラン州センダヤンでの合同追悼式、余朗朗(イロンロン)村虐殺の追悼碑がある知知(ティティ)での追悼式では緊張の連続で、特に16日、スンガイルイ村現地での林金發さん(スンガイルイ村中国系住民元村長)たちとの出会い、事件現場周辺の視察、ムヒディンさん(スンガイルイ村事件目撃・スンガイルイ村マレー系住民元村長)宅を訪問、事件の目撃証言を聞くときは緊張の極みでした。みなさんのおかげで何とかその場での振る舞いができていたように思います。

写真前列 左から筆者、林金發(元・中国系スンガイルイ村村長)、ムヒディン(元・マレー系
スンガイルイ村村長・事件目撃証言者)、高嶋伸欣
2列目 左から3人目 吉池俊子(アジア・フォーラム横浜)、2列目右端 楊佐智(ネ
グリセンビラン中華大会堂歴史研究会・現地のコーディネーター)

 また、同日に訪ねたパリッティンギ(港尾村・カンウェイ)の碑には、「日本皇軍橋本少尉領隊就屠殺長大成人四佰弐拾六名、及子孩未成人二百四十九名、計數六百七十五條無辜生命」と記されていると聞いていたので、ここを訪問するときも緊張していました。このパリッティンギとその周辺各地での虐殺事件では、第7中隊の中隊長やその下の小隊長が関わったとして戦犯処刑されています。「橋本少尉」と、名前が紀念碑に刻まれているからには、叔父も何らかの関わりがあったのでないかと思っているからです。パリッティンギの追悼碑に記された「橋本少尉領隊」の文言は確認できたのですが、それ以上のことは追悼碑からは明らかにできませんでした。

 2012年8月12日、マレーシア・ネグリセンビラン州の「日本占領時華人犠牲者合同慰霊祭」に参加し、高嶋伸欣氏に促されて挨拶をしました。「私は、スンガイルイ村事件で死刑となった橋本忠の甥で橋本和正と申します。叔父・橋本忠はスンガイルイ村事件の責任を問われて死刑になりました。叔父は死刑という形で責任をとったけれども戦後に生まれた私たちの責任は再び戦争を起こさないこと。日本軍によって犠牲になり多大な被害にあった、と訴えている「人々の声に応える責任」がある。日本で、郷土部隊が編成された広島で住民虐殺の歴史事実が伝えられていないので、ぜひ広く伝えていきたい。」と話しました。

 戦後78年が経過しようとする現在、中国やアジアの各地から日本の加害の歴史や非人道的な事実が数多く明らかにされつつあります。歴史の事実から目をそらし、歪めようとする人物もいますが、私たちは、その一つ一つに目をむけ、現地からの声に耳を傾けるべきだと思います。日本の加害の事実に向き合って、再び戦争は起こさせないための行動をする、それが私の戦争責任だと思っています。

あらためて加害の廣島を考える

 戦後、広島は被爆を「原点」として、核兵器廃絶・恒久平和を希求するヒロシマとして広がっています。被爆の実相を伝え「ヒロシマのこころ」を世界に広げていくことは、とても重要なことです。

 一方、被爆以前の広島もきちんと伝えていく必要があるように思います。日清戦争のちょうどそのとき、広島まで鉄道が開通していたということから広島が出撃基地を担い、天皇を迎えて大本営が置かれ、帝国議会を開いたこの広島、そこから世界に戦争の惨禍をもたらす歴史を担ってしまったこと、その一端を郷土部隊である第5師団・歩兵第11連隊が担った多大な「加害の歴史」を考えることです。

 叔父を含め戦争犯罪者として処刑された者を「戦争犠牲者」の一人とする考え方があります。戦争犯罪を「命令された」ものとして、免罪する向きもあります。わたしも戦犯処刑者を肉親に持つ一人として理解できないものではありません。

 しかし、それではその先のことを考えなくなってしまい、「私の戦争責任」が問われるように思えてなりません。私は事実をきちんと受け止め、事実に向き合って生きたいとおもいます。

 英語で「責任」に当たる言葉は、「responsibility」です。この言葉は、「response」=応答とか、反応とかを語源としているそうです。それならば、私は戦争の被害にあった多くのアジアの人々の声に「response=応答」して認識していきたいと思います。(完)

(参考文献)
高嶋 伸欣 林 博史編集 村上 育造訳 「マラヤの日本軍」 青木書店(1989年)
林 博史 「華僑虐殺」 すずさわ書店(1992年)
林 博史 「裁かれた戦争犯罪」 岩波書店(1998年)


【増補版】軍都廣島 「廣島」と「ヒロシマ」を考える

広島には2つの相対する顔があります。一つはヒロシマ、もう一つは廣島であり、前者は世界最初の被爆地、反核平和のイメージが先行する被害の広島であり、後者は日本の侵略戦争の拠点であった、さらに広島の郷土部隊歩兵第11連隊が犯した加害の広島です。

 近代日本の戦争と軍都廣島の関係を学び、広島の加害の歴史を知ることでいっそう平和への活動、認識を深めてもらいたいと思います。

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