戦犯処刑された叔父
―加害の「廣島」を考える 1

橋本 和正(広島自治体問題研究所)

 2023年5月19日から21日、G7サミット・広島が開催されました。

 公表された「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」は、被爆地広島で開催されるサミットとして、「核なき世界」に向けた前向きの議論や声明を期待していた被爆者や私たちの思いを完全に裏切るものでした。

 「政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返さない」と誓った日本国憲法の「平和主義」を守ることが、日本の侵略戦争で大きな犠牲を出し、被害を与えたアジア諸国への責任ではないでしょうか。そのような思いを込めて加害の「廣島」について記します。 

はじめに

 叔父・橋本忠は1948年1月2日、クアラルンプールのプドゥー刑務所において、戦争犯罪者として処刑されました。28歳でした。

 私は小学生の頃、何度か祖父母や父親に連れられて三瀧寺(広島市西区三滝山)で開催される慰霊祭に行っていました。ゴールデンウィークの頃だったので遠足気分で行った記憶があります。その慰霊祭とは戦犯処刑され、あるいは刑期の途中で亡くなった広島県出身者を慰霊するものでした。

 毎年、1月2日には叔父や叔母が次々と我が家に来て、お盆の時よりも丁寧に仏壇の前で手を合わせる姿を見ていました。叔父・忠の祥月命日だったと知ったのは、私が大人になってからのことでした。父や叔父、叔母が叔父・忠を話題にすると、マラヤ、クアラルンプール、セレンバン、パリッティンギ、バハウあるいはシンガポールという地名が繰り返し出てくるのでその地名を子ども心に覚えていました。

 ある時、家族がそろってフランキー堺さんが主役の「私は貝になりたい」というテレビドラマを見た記憶もあります。なぜかみんな黙ってじっと画面を見つめていました。

 私の祖父母や父や叔父・叔母は、叔父・忠が「戦争犯罪者」ということで一般の戦死者とは違う不名誉な影を背負い、周囲には多くを語らないまま戦後を生きていたのかもしれません。

 私は成長するにつれ、叔父・忠は戦犯処刑されたこと、それはマラヤ半島での出来事だと知るようになりました。

 しかし、私は叔父・忠の戦争犯罪の詳細は分からないままに過ごしていました。

将校にあこがれていた叔父・忠

 私の祖父母、両親は終戦まで、現在の韓国の全羅南道羅州郡金川面古洞里栄山浦(ヨンポ)に住んでいました。朝鮮が日本の植民地になった時代に、私の祖父が大正の初めに現地に入植し広大な土地を手に入れ、農業経営をやっていたようです。

 現地で生まれた私の父が長男で、すぐ下の次男として叔父が生まれました(1919年6月生)。祖父の「忠義」を尽くす人になれとの思いから「忠」と名付けられたようです。

 叔父・忠は、少年の頃から軍人・将校にあこがれていたようです。旧制・光州中学校(現地)を卒業すると職業軍人をめざし陸軍の下士官を養成する熊本の教導校(資料はなく未確認)に進みました。それを修了すると、志願して本籍地である広島の陸軍部隊に入営しました。広島の郷土部隊・歩兵第11連隊第7中隊に所属し、中国本土や海南島、仏印(ベトナム)に派遣されたようです。太平洋戦争開始時のマレー半島への上陸作戦、その後のシンガポール攻略作戦に参加しました。シンガポール陥落直後に南方軍の新たな命令「マレー半島粛清命令」にもとづいて、1942年2月から3月にかけて、マレー半島のネグリセンビラン州に移動、警備隊として駐屯しました。

廣島の郷土部隊「歩兵第11連隊」

 広島城の堀の東側、中国放送本社(RCC)の南側、木立の中に、一つの石碑と石の門柱が立っています。歩兵第11連隊の碑とその連隊入口の門柱とされるモニュメントです。

 旧陸軍歩兵第11連隊は、広島に根拠地を置く第5師団の中心部隊であり、広島の郷土部隊でした。石碑にはこの部隊が満州事変以来の対中国戦争において、中国大陸の各地にたびたび派遣され、太平洋戦争が始まった1941年12月8日にはマレー半島上陸作戦に参加したことなどが記されています。

 しかし、広島から派遣されたこの歩兵第11連隊が、シンガポールを占領した後にマレー半島のネグリセンビラン州に治安粛清部隊として配備され、1942年3月から中国系住民(華僑)の粛清行動を繰り返していたという事実は、石碑には記されていませんし、人々には、ほとんど知られていません。

 ネグリセンビラン州での大きな住民虐殺事件として、イロンロン村(犠牲者1474人)、パリティンギ村(犠牲者675人)、スンガイルイ村(この事件は8月、犠牲者368人)の事件が現地では知られています。戦後イギリス軍によってこれらの事件について、戦犯裁判が行われていますが、被告はすべて歩兵第11連隊の関係者です。

 

スンガイルイ村の華僑虐殺事件

 叔父・忠が住民虐殺の責任者とされたのがスンガイルイ村での事件です。スンガイルイは、ネグリセンビラン州にあり、バハウからマレー鉄道東海岸線で約23マイル北、パハン州との県境から少し南にあり、当時そこには鉄道の駅がありました。駅と言ってもプラットホームはなく、駅の周辺に20軒ばかりの店とその周辺に住民の集落があったといわれています。スンガイルイ周辺ではタバコの生産が行われ、その取引のためと西にある金鉱山の入口の村として、中国系の住民が400人くらい住んでいたそうです。

 ネグリセンビラン州の住民虐殺は、ほとんどが1942年3月に集中していますが、このスンガイルイ村事件は同年8月30日に起こりました。3月頃から行われた第1次から第6次までの治安粛清が一段落した後でも、「共産党軍」や「抗日分子」が行動を起こしたり、また様々な事件が起きると日本軍が出動し、その中では住民に対する虐殺も行われる、そういう時期であったようです。

 日本軍はマレー系住民に警察の下請けとして自警団を組織させる、役人の代わりをさせるなどしていたようです。中国系住民とマレー系住民を敵対させるようにして現地の住民を利用して住民を支配しようとしていたようです。

 スンガイルイ村の近くで、「共産党分子」が不穏な動きをしているとの情報が事件のひと月前頃から報告されていたらしく、そうした中で自警団員となっていたマレー系住民の男が誘拐され殺害された、という通報がマレー系住民から警察に、さらに日本軍警備隊(第7中隊)にもたらされました。

 少尉で小隊長の叔父がバハウから部隊を率いて、現地の警察官を伴ってスンガイル村に出動し、事件の捜査を行いました。住民の証言などによると、日本軍の隊長は中国系住民を集めて尋問し、自警団の男を殺害した「犯人は出てこい」という演説をおこない、捜査が終了しかけたころに日本兵隊長が「中国人たちを片付けてしまいたい。彼らはみな共産主義者だ」と言ったという。同行していたタミール人警察署長が、「犯罪者は裁判に懸けないといけない」と抗議したにも関わらず「責任は自分がとる」と言って日本兵は中国系住民の男を数珠つなぎにして人目のつかない周辺の林の中に連れて行き、銃剣などで殺害しました。女性や子どもたちは住居に閉じ込め、外側から機関銃で撃ったのち、住居に火を放って焼き尽くしたとのことです。

 事件後、マレー系住民が日本軍の許可を得てインド系労働者を使って遺体の処理・埋葬をおこない368人が犠牲になったことが確認されたとのことです。スンガイルイはこの住民虐殺によって集落自体がなくなってしまいました。それだけ大変な事件であったということです。

 叔父・忠は、1942年8月に、本人の尋問証言からすると軍の命令により、抗日分子、共産党分子に対する掃討作戦を行ったというのです。しかし、その掃討作戦とは、スンガイルイ村の中国系住民多数を犠牲にする住民虐殺そのものでした。

日本占領下の中国系住民虐殺 

 1942年2月、マレー半島上陸から2カ月余りで日本軍はシンガポールを占領しました。2月19日、南方軍総司令長官寺内寿一大将(当時サイゴン)は命令を発し、その第1項は「旧英領馬来に於ける治安を迅速に回復し軍政を普遍せしめ以て国防重要資源の取得を容易ならしむると共に軍自活の途を確保す」とありました。これを受けて第25軍(司令官山下奉文中将)は21日、指揮下の各師団にマラヤ全域の治安粛清を命令し、第5師団は「ジョホール州、昭南島を除く馬来全域の治安粛正(ママ)に任じられた」そして以下の命令を下した、とされています。

一 軍は馬来全域の治安を迅速に粛正(ママ)しつゝ次期作戦を準備す
近衛師団は昭南島(昭南市を除く)の第十八師団はジョホール州の迅速なる治安
粛清並びに戦場掃除に任ず 河村少将は依然現任務を続行す

二 師団(河村少将指揮下部隊欠)はジョホール州及昭南島を除く馬来全域の迅
速なる治安粛清に任ず

 中国侵略戦争の拡大・泥沼化が対米、対英戦争へと拡大していったことには間違いありません。しかし、なぜ治安粛清の対象とされた抗日分子、共産党分子がマレー半島の中国系住民だったのでしょうか。

 1931年満州事変、37年日華事変を経て、日本の中国侵略は本格化・拡大していきました。これに対して内戦状態にあった中国国民党と中国共産党の「国共合作と抗日民族統一戦線」は急速に発展して日本侵略に対し徹底抗戦していく合意が成立しました。国民党軍と住民の中で非正規軍として戦う共産党軍の両方への対応を強いられた日本軍は相当な苦戦を強いられたに違いありません。また、兵站能力が不足し食料などを「現地調達(略取)」せざるを得ない日本軍でした。

 アメリカ・イギリスやソ連(当時)から中国への軍事物資援助も拡大する中で、東南アジア移住していた中国系住民(華僑)も母国への侵略に対して、義援金を送り、軍事物資輸送に直接携わる人々(トラック運転手やトラック整備に携わり「回国機工」と呼ばれた)もいました。アメリカやイギリスからの軍事物資輸送ルートは「援蔣ルート」とも呼ばれました。

 日本軍も東南アジアの中国系住民による中国支援については当然、把握していたに違いありません。また、住民の中で活動する抗日勢力に過敏な対応する日本軍の体制を感じます。

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