シリーズ 語り継ぐー戦争と戦後
湯川秀樹と中谷宇吉郎
 ~「文人科学者」たちの戦前・戦時・戦後~
vol.Ⅰ

岡田知弘さん

はじめに

 湯川秀樹(以下、秀樹と略)が終の棲家とした京都・下鴨神社近くの秀樹の旧宅には、多くの書画が遺されていました。スミ夫人との共作が多いのですが、「雪は天から送られた手紙である」という文章を残した中谷宇吉郎(以下、宇吉郎と略)の絵と秀樹の和歌が書かれた色紙や掛軸も複数ありました。

 宇吉郎は、東京帝国大学理学部の寺田寅彦を師とした、雪の結晶のメカニズムを解き明かした物理学者であると同時に、夏目漱石の教え子で会った寅彦に習い、今も読み継がれる随筆や絵本も書いた「文人」でもありました。自然科学者でありながら、随筆や和歌など文学的作品にも優れた人たちは、「文人科学者」と言われています。

 自身も、科学者であり歌人でもある永田和宏は、2022年に出版された中谷宇吉郎『科学と人生』角川ソフィア文庫の「解説」のなかで、次のように書いています。「不思議なことに、わが国の物理学の世界には、エッセイの系譜といったものがあって、私の狭い視野のなかだけでも、寺田寅彦に始まり、その弟子である中谷宇吉郎、坪井忠二。中谷に師事した樋口敬二。直接の師弟関係はないが、それらの先達に続いて、湯川秀樹、朝永振一郎という二人のノーベル物理学賞の受賞者も、揃って多くのエッセイ集を残し、多くの読者を持っている」。私自身、何を隠そう、そのような「読者」のひとりです。彼らの作品に共通している科学的なものの見方や真理、さらに自然や社会、そして人間への見方についての普遍的な要素が、時代を超えて多くの人々を魅了しているからではないかと思います。

 秀樹は、もともと地質学者であり地理学者でもあった小川琢治の三男として東京で生まれ、父が京都帝国大学文科大学教授に就任することになり京都に移ってきました。自叙伝である『旅人』(初版、1960年)には、まだ5、6歳のころに祖父から漢籍の素読の指導を受けたことや、母や姉の影響で小説も含む本を読みふけっていたこと、のちに東京帝国大学教授となる長兄・芳樹や京都帝国大学教授となる次兄・(貝塚)茂樹、そして次弟でやはり京都帝国大学教授となる環樹との日々の交流、そして中学、高校時代の学友との交友録のなかで、兄たちがはじめた同人誌『近衛』に、童話をつくって投稿してことも書かれています。さらに、湯川邸には、小川秀樹の名前が表紙に書かれた雑記帳が残されており、それを開くと、数式とともに、欄外に和歌が書かれていることも確認できます。すでに幼少期から学生時代にかけて、「文人科学者」としての素養を表していたのです。

 このように、秀樹も宇吉郎も「文人科学者」と言われる存在でした。秀樹は1907(明治40)年生まれですが、宇吉郎は7歳年長の1900(明治33)年生まれです。ともに大正デモクラシー期に少年あるいは青年時代を過ごした二人は、戦時下に入った1940(昭和15)年に、秀樹が宇吉郎の勤務する北海道帝国大学理学部で集中講義した直後から、家族ぐるみの交友を深めていきました。交友関係は、戦争を挟んで戦後も続き、その証として、多くの書画が秀樹や宇吉郎の自宅や職場等に残されたのです。

 ただし、私がここで書きたいことは、二人の単なる交友録ではありません。戦時下にあって二人は大きな研究成果をあげますが、異なった形で戦時体制に協力していきます。戦後、ともに原爆の恐ろしさと科学による文化的な復興を社会に訴えていきますが、1954年のビキニ環礁での米軍による水爆実験(以下、ビキニ事件)をめぐって、二人の言動の違いが明らかとなります。当時、米国で研究をしていた宇吉郎が、米ソ冷戦下で米国側を擁護するかのような寄稿を『毎日新聞』に行い、日本国内で思わぬ波紋を呼び起こしたのです。いったい、その真意はどこにあったのでしょうか。他方、秀樹の方は、このビキニ事件をきっかけにラッセル・アインシュタイン宣言の署名人となり、生涯をかけて国際的な核兵器廃絶運動の先頭に立ち、「行動する科学者」としての姿を明確にしていきました。

 広くいえば同じ物理学者でありながら、このような違いは、なぜ、どのように生まれたのでしょうか。そこには、戦争と科学、核兵器と科学者の社会的責任という大きなテーマが伏在しています。これらは、現代における日本学術会議会員の任命拒否や同会議法改正問題とも深く関わっている問題であり、核兵器使用の危険性が増しているなかで、深く考えるべき問題ではないかと思います。

 また、晩年の二人の関係は、どうなっていったのでしょうか。この点も、気になるところです。小論では、これらの疑問点を掘り下げるとともに、宇吉郎の親族や岩波書店・映画との関係、まちづくりのカリスマと言われる由布院の中谷健太郎とのつながりについても述べてみたいと思います。とりわけ秀樹については、なぜ、物理学の理論研究をしながら、和歌の道にこだわり、さらに核兵器廃絶の社会活動に力を入れていったのか、その「文人科学者」としての特性について考えてみたいと思います。

中谷宇吉郎

1.中谷宇吉郎 人と仕事

(1) 中谷家のひとびと

 中谷(なかや)宇吉郎については、既に優れた評伝がいくつも出版されています。古いものとしては東京帝国大学物理学科の同級生であり友人でもあった藤岡由夫による『中谷宇吉郎-小伝と科学随筆抄―』(雷鳥社、1968年)があり、宇吉郎の教え子であり、雪の科学館の設立に尽力した東晃の『雪と氷の科学者 中谷宇吉郎』(北海道大学図書刊行会、1997年)も見逃せません。近年に入り、北大理学部の名誉教授である杉山滋郎の『中谷宇吉郎―人の役に立つ研究をせよ』(ミネルヴァ書房、2015年)、及び北國新聞社出版局編『回想の中谷宇吉郎―没後55年記念出版』(北國新聞社、2018年)が出版され、最新の情報によって宇吉郎像が描かれています。以下、これらの既出書をもとに、宇吉郎の来歴や家族、友人関係について簡単に辿ってみます。

 宇吉郎は、1900(明治33)年7月4日、石川県片山津(現在の加賀市)に生まれました。生家の裏は柴山潟に面し、温泉街の正面にあたる生家跡には宇吉郎生誕の地の石碑があります。父は呉服・雑貨商を営む卯一、母はてるといいました。宇吉郎は長男であり、弟に治宇二郎(考古学者)、そして富子、冬子、武子、芳子の四姉妹がいました。もともと、中谷家は、加賀藩十村といわれる庄屋の家系でした。店は卯一の兄である中谷巳次郎との共同経営でしたが、巳次郎は店を卯一に譲り、東京や近隣の大聖寺町で事業を行います。ところが、大聖寺での料亭経営に失敗し、大分県に移住します。その巳次郎が、別府の観光開発を行った亀の井の油屋熊八に可愛がられて、由布院盆地に現在の亀の井別荘をつくります。由布院のまちづくりのリーダーである中谷健太郎は、その孫にあたります。巳次郎の息子である宇兵衛は、宇吉郎の妹である武子(前出)と結婚し、健太郎を生んだのです。

 また、同じく由布院のまちづくりのリーダーである溝口薫平の配偶者である溝口喜代子は、巳次郎の兄弟である直吉の孫であり、中谷健太郎の「またいとこ」にあたります。喜代子は、直吉の娘である寿子が嫁いだ禅寺の芝原家の娘として1938年に生まれましたが、幼少期に由布院の庄屋であった溝口岳人の家に養子に入っています。

 こうして由布院には、加賀の中谷家の親類縁者が多く移住していたため、宇吉郎は戦後もたびたび訪れて休養しています(中谷健太郎:2006年、野口智弘:2009年)。

 ともあれ、宇吉郎は、幼少時からその才覚が認められ、大聖寺の親戚や陶芸家に預けられて、幼稚園や小学校に通いますが、小学校卒業の年に父が亡くなります。陶芸家の浅井一毫からは赤絵も習っています。宇吉郎の絵心は、幼少時から培われたといえそうです。その後、小松中学校に入り、第四高等学校への進学を試みますが、不合格となり、一年間の浪人生活のあと四高の理科甲類に進学します。小松中学校時代の同期には、小山内薫に師事し新劇等で活躍した北村喜八がいました。また、第四高等学校での級友に、高野與作がいます。高野は、富山県下新川郡田谷(現在、黒部市)に生まれ、四高に入学して宇吉郎と出会ったあと、ともに東京帝国大学に進学します。宇吉郎は理学部に、高野は工学部に進学します。

 四高から東京帝国大学に進学する際に、宇吉郎は学校推薦でサントリー創設者の鳥井信次郎から経済的支援を受けます。また、高野も、宇吉郎の世話で匿名の篤志家から学資援助を受けます。後に、この人が宇吉郎の静子夫人の先生でもあった(といっても高野の3歳上でした)杉野柳であることが判明し、最初は高野が激しく反発しますが、後に二人は結婚し、3人の娘をもうけます。

 なお、余談になりますが、杉野柳の実家は、私の故郷である富山県西砺波郡大滝村(現・高岡市福岡町大滝)にある、加賀藩十村を務めた大地主でした。後に長女の淳子は、岩波書店社長の岩波雄二郎と結婚し、三女の悦子は宇吉郎の世話もあり岩波ホールの総支配人となります。高野自身は、東京帝国大学を卒業後、南満州鉄道株式会社に就職します。そこで問題になったのが凍土を高速で走る鉄道の建設であり、この点で宇吉郎との仕事上の関係が続くことになります。これは、後で詳しく述べることにします。

(2) 理論物理学から実験物理学へ

 宇吉郎が東京帝国大学理学部物理学科に入学したのは、1922年4月でした。四高時代は生物学に興味をもっていましたが、高校3年生の後半に、哲学者の田辺元による『最新の自然科学』を読んで理論物理学に興味をもちます。アインシュタインの相対性理論が話題になりはじめた頃だったので、物理学科に入学することを決めたといいます。ちなみに、アインシュタインは1921年度のノーベル物理学賞を受賞しますが、その発表は22年11月のことでした。そのとき、アインシュタインは、改造社の招待で日本に船便で向かう途中であり、神戸港で多くの人々が祝いながら出迎えたそうです。アインシュタインは、その後、各地で講演しています。このとき、秀樹はあまり興味がなかったようですが、多くの理系学生が強い関心をもったといわれています。

 宇吉郎は、1923年4月に2年生になって、寺田寅彦の実験実習を受講し、自分には理論物理学よりも実験物理学の方が向いていると考えたと言います。ところが、その同じ年の9月1日に、関東大震災が襲いかかります。当時、宇吉郎は、弟の治宇二郎が東洋大学を経て東京帝国大学に進学したこともあり、母や妹も東京に呼び寄せていました。母は、不忍池近くで小さな呉服店を営みました。けれども震災によって上野・池之端にあった店と家は焼失してしまいます。途方に暮れた宇吉郎を支援したのが、前述の鳥井であり、また高校時代の同級生であり共に東京帝国大学の物理学科に進学していた和歌山県出身の桃谷嘉四郎とその父でした。彼らの励ましや支援を受けて、宇吉郎は勉学生活に戻り、寺田寅彦の授業を聴くことになります。

 その年の暮れから、宇吉郎は寺田の自宅訪問を許されるまでに信頼を得て、寺田との師弟関係を深めていきます。ちなみに、寺田の有名な警句「天災は忘れた頃来る」を、後世に残したのは、寺田の言葉を書きとっていた宇吉郎でした。なお、寺田は、冒頭に述べたように、第五高等学校時代に夏目漱石に学び、東京に移ってからも師弟関係が親しく続いている仲でした。そのこともあって、名随筆家として誰もが認める存在でした。その寺田を師とする宇吉郎が、師を意識して初めて書いた随筆が、『理学部会誌』創刊号(1924年)に掲載された「九谷焼」でした。しかし、寺田は、学究に勤しむべき時に、随筆に力を入れることは慎むべきと諫めたそうです。

 宇吉郎は、東京帝国大学を卒業後、寺田の紹介で、彼の研究室も設けられていた理化学研究所に務めます。そこで、宇吉郎は寺田の指導の下、「電気火花」について研究します。そして、同僚の藤岡由夫の妹である綾子と結婚します。その直後の1928年2月、宇吉郎は、北海道帝国大学に新設される理学部物理学科の助教授就任が内定し、ロンドンに留学します。ところが、その直後に、綾子がジフテリアに感染し、亡くなるという哀しい便りを受け取ります。

 間もなく、兄を気遣い、綾子の葬式の世話をした弟の治宇二郎が考古学を学ぶためにパリにやってきます。宇吉郎もパリでしばらく過ごします。ここで、治宇二郎についても触れておきたいと思います。彼は、宇吉郎の2つ年下の弟で、小松中学校時代に、文学に熱中し、同人誌『跫音』に小説を投稿、そのうちの一文「独創者の喜び」が芥川龍之介の目にとまり、「一人の無名作家」として高く評価しています(神田健三:2016年)。

  けれども、治宇二郎は誰もが想像していた小説家にはならず、その後四高を経て、一度は東洋大学文化学科に入学して仏教学を学びます。同時に、兄宇吉郎が学んでいた東京帝国大学理学部にも足繁く通い、寺田の知遇もえて、当時理学部人類学教室にいた考古学者・鳥居龍蔵の教えをこうことになります。たまたま、1923年2月に、治宇二郎は腸チフスに罹患し、東洋大学を退学することになります。それを機に、東京帝国大学理学部の人類学教室選科(当時は、選科しかありませんでした)への進学を決め、翌年4月から同教室に入り、1927年に修了します。その間、東北各地の遺跡調査を手掛けて研究成果を発表する一方、東洋大学文化学科の同級生であった岩手県和賀郡出身の菅原セツとつきあい、修了と同時に結婚します。同年8月には長女・桂子、翌28年10月には次女・洋子が生まれています。

 1929年4月に、治宇二郎は東京帝国大学嘱託の辞令を受け取った後、7月にフランスに単独で留学します。居住先は、パリ日本館で、そこで京都帝国大学助教授であった、数学者の岡潔夫妻と懇意になります。また、人類学者のモースの知遇をうけ、パリ人類学会の会員として学会発表や遺跡調査に積極的に出かけて、日本に送る標本の作製も行っていました。しかし、3年目に肋膜炎を発症し、病状が悪化するなかで、止む無く帰国を決意し、1935年5月に神戸港に到着し、由布院の中谷巳次郎を頼り、亀の井別荘で療養生活を送ることになります。翌年セツもこどもを連れて由布院に来て、治宇二郎の看病をします。34年には由布院の遺跡調査も行えるほどになり、35年に三女の恭子が生まれますが、36年3月に、治宇二郎は34歳の若さで夭折します。

 この間、宇吉郎も、治宇二郎を見舞うために、由布院を訪れています。ちなみに治宇二郎の長女である法安桂子は、謎の天才考古学者とも言われた父親の事績を丹念にまとめた『幻の父を追ってー早世の考古学者 中谷治宇二郎』をAN-Design & Writing 社から、2019年に出版しています(2022年に幻冬舎から改訂版が出版)。また、三女の山下恭子は、東映動画に就職し、のちにNHK連続テレビ小説「なつぞら」(2019年前期)の主人公ともなる奥山玲子らと労働争議を体験し、その後、身体を壊して由布院に戻り、本屋を営む一方、湯布院町時代の町会議員も務めた人物です。

(3) 北海道帝国大学で雪の結晶の研究へ

 話は前後しますが、宇吉郎は、治宇二郎よりも一足早く、1930年2月に帰国します。4月には予定通り北海道帝国大学理学部助教授に就任します。新学部創設メンバーのなかには、東北帝国大学出身で、戦後東京大学総長を務める茅誠司がいました。彼らは、就任前から、二人でヨーロッパ旅行するなど親しい関係であり、その交友は宇吉郎が亡くなるまで続きました。

 宇吉郎がまず取り組んだのは学位論文の執筆でした。1931年2月に、京都帝国大学で博士学位取得を取得します。「各種元素による長波長X線の發生に就て」という論題でした。それによって、32年4月には、教授に昇任することになります。

 宇吉郎は、この頃から、北海道という土地に合った研究テーマとして雪の結晶に注目し、顕微鏡による観察を開始したといいます。また、私生活の面でも大きな変化があり、石川県の縁者の紹介で、1931年5月に寺垣静子と再婚し、新しい家庭をつくります。

 1933年12月からは、十勝岳の中腹にある白銀荘を拠点に雪と霜の観察を開始します。杉山滋郎によれば、宇吉郎は、霜の結晶の習性と雪のそれとは著しい類似性があり、霜の結晶については雪よりも容易に人工的な結晶ができると推論したそうです。そして、若い研究室のスタッフや学生とともに実験を重ね、本当に雪らしい結晶をつくるためには、常時低温研究室が必要だと考え、それを1936年に完成します。その年の3月、関戸弥太郎助手が、常時低温研究室において、人工霜の製作の途中、試しに防寒服のウサギの毛を一本抜いて、実験装置に入れると見事な人工雪ができたといいます。実は、その前に羅紗を使った実験でも雪の結晶ができていたのですが、ウサギの毛を使うことによって再現性が確認され、これが日本における人工雪の初めての製作となったのです。

 次に、どのような条件で、いろいろな形の結晶ができるかを観察、測定する研究を開始します。助教授の花島政人が、人工雪ができるところの温度と、そこへ水蒸気を送る水の温度、そして結晶の形との関係をしらみつぶしに調べ、のちに「ナカヤ・ダイヤグラム」と呼ばれる、現在もその妥当性が評価されている研究成果を生み出すことになります。

 宇吉郎は、このように日本の低温物理学の開拓者でした。そのために、研究室や研究グループによるプロジェクト型の集団的研究体制を国際規模でつくり運営した人であり、単独での研究を中心とした理論物理学とは大きく異なる研究体制の中心にすわっていたといえます。

 それと同時に、宇吉郎は、その優れた文筆力を生かして自然科学、科学方法論の啓蒙活動

という面でも活躍しています。それは、1934年頃に、師匠の寺田が、宇吉郎による新聞、雑誌への投稿や講演を許すようになったことがきっかけであったといいます。寺田は、前述の『理学部会誌』への宇吉郎の投稿記事をみて、「文書がうまいだけに身を誤るといけない」と考えたのではないかと、前述の杉山は自著で述べています(杉山:2015)。

【北海道帝国大学 旧理学部本館 現総合博物館】
【復元保存されている中谷宇吉郎研究室】

2.秀樹と宇吉郎の出遭い

(1) 家族ぐるみの交友へ

 1938年10月10日、秀樹と宇吉郎は、服部奉公賞を同時に受賞し、二人が映った授賞式の記念写真が残されています。同賞は、1930年に株式会社服部時計店(現 セイコーホールディングス株式会社)の創業者であり初代社長であった服部金太郎が、私財を投入して創設したものです。工学分野の研究助成とともに、学術及び科学技術の振興と進歩発展に貢献した研究者の顕彰も行っていました。同賞は、現在も続いています。

 杉山滋郎によると、理化学研究所の仁科芳雄が、秀樹と宇吉郎を推薦したといわれています(杉山:2015)。宇吉郎の受賞理由は、もちろん「雪の科学」であり、秀樹の方は国際的にも注目された中間子理論の研究でした。

 しかし、この受賞がきっかけで二人の親しい交友が始まったわけではありません。それは、秀樹の次のような文章で確認することができます。

 「私が中谷さんと親しくなった始まりは、昭和15年に北大から講義を頼まれて、札幌に行った時からである。それは、夏だったが、北海道の気候をよく知らなかった私は、普通の夏服と薄い下着しか用意していかなかった。そのために、講義を2、3回やっている間に、急性肺炎にかかってしまった」(湯川秀樹「中谷さんと私の短歌」『中谷宇吉郎随筆選集』第2巻月報2、朝日新聞社、1966年8月)。

 宇吉郎も随筆「湯川秀樹さんのこと」(『文藝春秋』28巻1号、1950年1月)において、このことについて詳しく触れています。当時は、ペニシリンが使われていない時代でしたので、秀樹は、北海道大学の世話で北大病院に1か月程度入院し、その後も静養が必要となりました。そこで、宇吉郎が自宅での静養を申し出ます。「私は前橋へ雷の観測に出かけることになっていた。それで丁度いいというので、私の家で、一月あまり留守番兼静養をして貰うことになった。湯川さんは、奥の六畳で、一月あまり神妙に静養をして、すっかり元気になって帰って行った」というのです。その別れ際に、宇吉郎夫人が、画帖を出して、何か記念に一筆を書いてもらいたいと頼んだそうです。その時詠まれたのが、次の歌です。

  病癒えて帰り行く身や北国の人の情を家苞にして     秀樹

 秀樹にとっては、宇吉郎夫婦は、命の恩人でもあったのです。こうして、家族ぐるみの交友が始まります。前述の『月報』には、「その後も、よくあちこちで、いっしょに晩飯をたべた。そんな時、中谷さんは、いつも紙、墨、絵具、ハンコなどを用意しておられて、食事が終わると墨をすり、紙をひろげて、絵をかかれる」という秀樹の一文があります。

 また、宇吉郎も前出のエッセイで、「義理堅い性質で、この時の北大の講義が中途半端になったからといって、17年の夏にまた一度講義にきてくれた。その前年の秋、細君をつれて六甲の御宅で一泊して、一夕大いに『文人墨客』をやったことがある。スミ夫人も子供の頃から画を習っていて、立派に雅名まであることを、その時初めて知った。私が秘蔵の嘉慶墨で、コスモスを描き、スミ夫人が赤とんぼをあしらい、湯川さんがそれに歓迎の俳句を賛してくれた。細君までその隅に俳句を書き添えるという極めて高尚な遊びをした」と書き残しています。

 ちなみに、旧湯川邸の片付けをしている際に、京都に移る前に住んでいた兵庫県西宮市の苦楽園の住所宛てに送られた、宇吉郎夫妻の娘たちから、秀樹夫妻の息子たちに宛てた手紙と折り紙が見つかりました。両家族の交友は、戦後、秀樹が米国留学したときも、宇吉郎がしばらく滞在し、その時に撮った写真が、秀樹のノーベル賞受賞の報道写真に使われたということからも、確認することができます。

 秀樹は、『月報』の寄稿文の最後に、「私にとっては、つき合っていて、いちばん楽しかった友人の一人であった」と述べています。また、宇吉郎も、先のエッセイで、「同じ物理学とはいっても、私の方は、湯川さんとは全然専門がちがうし、それにあの難解な理論は、全く分らない。それで会っても、いつも物理の話はほとんどしない。いわば道楽の方での友だち関係を、十年来つづけてきているわけである」と述べており、二人はまさに気が置けない親友関係を家族ぐるみで作っていったといっていいでしょう。

(2) 転換点としての1938年

 宇吉郎の評伝を書いた杉山滋郎は、「飛躍の1938年」という小見出しをつけて、服部奉公賞の受賞を手始めに、次のようなことがあったと述べています(杉山:2015)。

 この年、岩波書店から、岩波新書シリーズが出版されますが、その初回配本20冊のひとつとして宇吉郎の『雪』が発売されます。現在も続く岩波新書の自然科学分野の草分けの一人であったわけです。この『雪』の最後に、「雪は天から送られた手紙である」という有名な一文が掲載されました。

 また、前述したように師匠である寺田から随筆の執筆を止められていた宇吉郎が、自然科学研究者として独り立ちし、師も執筆を認めたのが1934年頃だと杉山は述べています。その最初の随筆集『冬の華』が岩波書店から出版されたのも、この年でした(杉山:2015)。

 さらに科学映画づくりにも挑戦しました。岩波新書の『雪』を読んだ東宝映画の専務が、科学映画の企画として提案したのでした。翌年にワシントンで開催予定であった第2回国際雪委員会の大会への出席を、病気のために躊躇っていた宇吉郎は、英語版の映画をつくりそれを上映してもらうことを考えます。東宝側は、これを無料で制作する代わりに、国内上映を一手に引き受けます。この映画は、翌年、委員会大会で上映されて大反響を得て、全米で巡回上映されることになったそうです。科学の普及を何よりも大事にした宇吉郎らしい新機軸の活動を始めたといえます。

 他方、秀樹にとっても、1938年は大きな転機になる年でした。秀樹は、1929年3月に京都帝国大学理学部を卒業後、同学部に副手として残ります。1932年に同学部専任講師になったことから、大学事務官の紹介で見合いをし、大阪にあった湯川胃腸病院院長の湯川玄洋の娘であった澄子(スミ)と結婚し、苗字も小川姓から湯川姓に変えます。ちなみに、湯川胃腸病院は、夏目漱石が入院した病院でもあり、その様子は漱石の『行人』にも登場しています。

 新婚生活は、大阪市内で過ごしますが、1933年に東北帝国大学教授であった八木秀治から新設の大阪帝国大学理学部への採用話があり、34年に新設の理学部専任講師となります。この年の夏に、住所も西宮市の苦楽園に移し、そこから当時大阪市内中之島にあった理学部の研究室に通うことになります。36年には助教授に昇任します。この間、後にノーベル物理学賞を受賞することになる中間子理論に関わる論文を次々に発表したのです。

 そして1938年4月には大阪帝国大学から博士学位を授与されます。学位論文のタイトルは英語表記でしたが、秀樹が書いた申請書類には「素粒子の相互作用に就て」と訳してありました。当時の研究室の陣容は、講師に坂田昌一、小林稔、副手に武谷三男というように、湯川の教え子かつ共同研究者が揃い、戦後の日本の物理学を担う優れた人材からなっていました。

 ところが、5月末に秀樹の指導教授であった玉城嘉十郎京都帝国大学教授が急逝します。さらに、6月に武谷三男が治安維持法違反容疑で検挙されるという大事件が立て続けに起こったのです。

  特高警察は、京都大学瀧川事件のあとに、京都帝国大学文学部を出た、中井正一、真下信一、新村猛や、彼らの誘いで『世界文化』という雑誌の編集・出版に協力した武谷三男らを、『土曜日』という定期新聞の発行にも協力したとして、共産党の指導の下で人民戦線を構築しようとしているという「京都人民戦線事件」をでっちあげて、一斉に検挙したのでした。武谷は、いったん保釈されましたが、1944年5月に再び検挙され、獄中で終戦を迎えます。

 武谷は、『世界文化』誌上で、谷一夫の筆名でマルクス主義的な「自然の弁証法」の紹介をしており、田中正によれば、その理論は秀樹や坂田昌一らに強い影響力をもったといわれています(田中正:2008)。併せて、秀樹にとっては、中学時代の同級生であった新村猛や真下信一も、この事件で37年11月に検挙されており、心身ともに大きなショックを受けたと想像されます。

 また、この事件を機に、秀樹自身が特高の監視下に置かれることにもなりました。これは、田中正が指摘していることですが、特高警察の内部情報誌である『特高月報』1938年9月号に、『世界文化』の配布先を、『土曜日』及び関係誌とみなされた『学生評論』の配布先とともに、掲載されています。当時の『世界文化』の購読部数は500~700といわれていますが、そのうち『特高月報』では、39名の個人名と住所が記載されていました。そのなかに「兵庫県苦楽園 湯川秀樹」という住所氏名が、甘粕石介、岩波茂雄、戸坂潤、佐々木惣一、清水幾多郎、谷川徹三、上野精一、林達夫、馬場啓之助、天野貞祐らと一緒に書かれていたのです。この一覧表の冒頭には、「客年十二月来京都府当局に於て検挙せる文化運動関係事件(世界文化、学生評論、土曜日、其の他)の取調概要に就ては五月分月報に記述せる処なるが其の後関係機関紙の配布状況、先の通り判明せり。関係当局に於ては視察取締上相当注意せられたし」(『特高月報』1938年9月号、14頁)。こうして、秀樹も全国の特高警察に要注意人物として周知され、マークされていたのでした。

 一方、京都帝国大学理学部では、玉城教授の後任人事の選考がなされ、結局、秀樹の就任が決まり、1939年5月に秀樹が教授として着任します。坂田も講師として京都帝大の湯川研究室に異動しますが、武谷は移ることができませんでした。

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