更新!シリーズ 語り継ぐー戦争と戦後
湯川秀樹と中谷宇吉郎
 ~「文人科学者」たちの戦前・戦時・戦後~
vol.Ⅱ

岡田知弘さん

Ⅱ部

3.戦時下の秀樹と宇吉郎

(1) 秀樹と戦争協力

 京都大学教授に就任して間もなく、秀樹は1940年の帝国学士院恩賜賞受賞に続き、30歳代で文化勲章を受章します(1943年)。佐藤文隆は、この文化勲章制度が、1937年に開始されたことや、その後、各界で活躍した人物を政府が選定し、政治に活用したナチスの手法に倣ったのではないかという見方をしています(佐藤:2019)。

 1943年の受賞者は、秀樹のほか、徳富蘇峰、三宅雪嶺など合計7名でしたが、このうち徳富は体制翼賛会の文化部と言われた「大日本言論報国会」の会長でした。同会は、「大東亜戦争」に向けて、国民の思想面・精神面での国家総動員を「思想戦」と位置づけて、内閣情報局主導で作られたものです。情報局は、国策遂行の基本的事項に関する情報収集や広報宣伝、出版統制、報道・芸能への指導取締の強化を目的として設立された内閣直属機関であり、文壇の大御所であり、戦争開始以後、評論家として政府に協力していた徳富が会長に据えられたのです。戦後、このことにより徳富はA級戦犯となります(赤澤:2017)。

 その徳富は、同時に受章した秀樹を同報告会会員になるようにすぐに説得し、どうやら秀樹はそれに応じて正式会員となります。同会の機関誌『言論報国』創刊号(1943年10月号)には、早速、文化勲章の受章記念祝賀会での「本会会員」という紹介付きで秀樹のスピーチが掲載されたのです。その前に挨拶した、国粋主義者で有名な三宅雪嶺は、これまでの文化勲章受章者のうち、最年長が自分であり、最年少が秀樹であると述べています。

 秀樹は、この年の1月6日付の『京都新聞』に「科学者の使命」と題した年頭の挨拶を寄稿しています。そこでは、「今日の科学者の最も大いなる責務が、既存の科学技術の成果を出来るだけ早く、戦力の増強に活用することにあるのは言を俟たない」と述べていました(小沼通二編:2020年)。

 田中正は、その著書のなかで、「疲弊した国民の戦意を高揚するための格好のシンボルとして、当時日本の科学界の最高峰に立つ湯川がターゲットの一人に選ばれたとして何の不思議もないであろう」と述べていますが(田中正:2008)、私もそのとおりだと思います。ましてや、特高の監視があるなかで、家族の生活を守る必要がある秀樹にとっては、苦渋の選択だったと考えられます。

 しかし、戦争を推進する国家は、秀樹ら科学技術者を軍事研究に参加させるべく動いていました。1943年10月、政府は、新設された技術院を中心に戦時研究員制度をつくり、首相を長とする研究動員会議で戦時研究員を任命し、陸軍や海軍を中心とした軍事研究に研究者を動員したのです。秀樹も、戦時研究員に任命され、陸軍、海軍との合同会議に出席したり、海軍側で原爆の基礎研究をすすめるための「F研究」に、京都帝国大学物理学教室の面々とともに参加します。共同研究に参加した軍人たちには物理学教室の卒業生もいたといいます。ちなみに、もとより、この研究の中心に座ったのは秀樹ではなく、実験物理学を専門とする荒勝文策でした。1945年5月に海軍省との共同研究が正式決定し、6月23日に最初で最後の戦時研究員会合が京都帝国大学理学部内で開催されたという記録が残されています。そして、7月21日に琵琶湖ホテルで、海軍と京大の戦時研究員の合同会議が開催されます。ここで、秀樹は「世界の原子力研究」と題する報告を行っています。その16日後に、米軍によって、広島に原爆が投下されることになり、戦況も大きく悪化し、F研究も終焉を迎えたのでした(政池:2018年)。

 広島への原爆の投下については、いち早く新聞記者が、取材という形で秀樹に知らせたと考えられます。前出の小沼通二編『湯川秀樹日記1945』の1945年8月7日付の日記には、「午後、朝日新聞、読売新聞等より広島の新型爆弾に関し、原子爆弾の解説を求められたが断る」と記されています。小沼の解説では、日本時間で8月7日午前1時頃に、トルーマン米国大統領が「日本に原子爆弾を投下した」と放送しており、その裏付けを取るために新聞記者が動いたのではないかと指摘されています。また、同日記には長崎の原爆投下についての記述はありません。原爆という用語は、政府や軍は終戦まで使用しなかったといいます。

 しかし、京大理学部の荒勝研究室と理化学研究所の仁科芳雄らは、8月8日には広島現地に向かいます。京大では、理学部と医学部の混成調査団が結成され、終戦前に2度調査に入り、放射能を測定し、ウランの核分裂による原子爆弾であるという結論を得て、15日に海軍技術研究所に電報で知らせたといいます。実は、その前の13日に、荒勝教授らが、理学部で報告会を開き、秀樹も参加しています。日記には、「原子爆弾に関し荒勝教授より広島実地見聞報告」と記載されており、「原子爆弾」という言葉が使われています(小沼通二編:2020年)。

 敗戦後の9月16日に、第三次調査団が広島に派遣されましたが、17日夜半、枕崎台風が広島を襲い、調査団の宿舎であった陸軍病院を襲い、京大の医学部や理学部の研究者が合計11人も犠牲となってしまいました。その中には、京大理学部の大学院生であり、原子爆弾の核種特定に貢献したとわれる花谷暉一も含まれていました(政池:2018年)。

 秀樹は、9月24日に遭難の報を聞き、26日に京都市内にあった兄の家に弔問に出かけたと日記に記しています。原爆投下の衝撃は、研究分野が近いことや、原爆の基礎研究にも協力したこと、さらに同じ物理学教室のスタッフが被災地調査に向かい、かつ遭難者まで出してしまったことで、かなり深く大きなものであったと考えられます。

(2) 戦時下の宇吉郎

 さて、「飛躍の1938年」後の宇吉郎は、北海道の地を舞台に、霜や雪氷に関する大規模な研究活動を次々に開始していきます。以下、『北大百年史』(1980年)などに基づきながら、宇吉郎の足跡を辿ってみましょう。

 北海道の鉄道において最もやっかいな問題は「凍上」でした。凍上とは、気温が低いときに、地中にできる霜柱により地面が持ち上げられる現象です。これは、鉄道省北海道鉄道局の抱えていた問題に留まらず、北辺対策という意味での軍事的要請でもありました。そこで、北海道鉄道局は、1939年11月に凍上対策研究委員会をつくり、宇吉郎もそのメンバーとなります。宇吉郎は、主として凍上問題が起きるメカニズムを調査研究し、工学部の教員や鉄道局の技師が技術的対策を考案し、ある程度の成果を得ます(杉山:2015)。

 この研究は、さらに満州でも展開することになります。たまたま四高以来の友人であった高野與作が、満鉄で凍上問題に悩んでおり、彼からの依頼もあって1940年以来、複数回、満州やその奥地の凍土地帯を調査し、基礎研究をもとにした技術的対応策について助言をしています。

 その一方で、1939年からは日本学術振興会の第9特別委員会に参加し、雷の研究にも従事しています。当時、送電線や発電所、爆薬保管庫、飛行機等の無線電信への落雷による障害を取り除くために設置された委員会です。委員会には陸海軍の軍人たちも参加しており、軍事研究の一環でもありました。宇吉郎は、この委員会にも参加し、落雷のメカニズムや電気工作物に対する雷の放電現象について研究し、稲光の撮影技術で新境地を開いたといわれています。

 さらに、1940年度には北海道帝国大学初の付置研究所である低温科学研究所の設立に向けて、他の学部教官とともに大学を動かしつつ海軍の支援も受けて、概算要求を実現し、43年度に施設が完成しています。全体の建物面積の3分の1が、海軍省の施設でした。ここでは、基礎研究とともに、飛行機の着氷対策といった実用化のための技術開発も行われていました。

 宇吉郎は、着氷のメカニズムや対応策を調査研究するために、1943年度にはニセコアンヌプリの山頂に、20人の研究員が入れる着氷観測所をつくり、飛行機のプロペラを設置して、着氷の観察をしています。

 この間、宇吉郎は、秀樹より一年遅れて1941年に帝国学士院賞を受賞しているほか、その文筆力が評価されたためか、大日本言論報国会の会員にもなっています(小沼:2020年)。

 もっとも、杉山によると、宇吉郎は一方的に国や軍部に追従していたわけでありませんでした。岩波書店の小林勇と協力し、「少国民のために」という新シリーズのひとつとして、こどもたちとの対話を繰り返すなかで、できるだけわかりやすい表現にした『雷の話』を出版し、これが評判になります。岩波新書の出版が困難になってきたなかで、こども向けの自然科学分野の本で、満州国建設の考え方の非科学性を鋭く批判した『寒い国』も執筆、出版します。しかし、宇吉郎の相棒であった小林は、1945年5月に、岩波新書の出版方針が反戦的であるとして、特高警察に検挙されてしまいます。これが、横浜事件の一コマでした(杉山:2015年)。

 宇吉郎は、発表の媒体を変えながら、政府や軍部の批判を続けたと、杉山は指摘し、大きく3つの点で批判をしているとしています。第一に科学を無視することの非合理性であり、第二に科学や科学者を活用する際の非効率性です。例えば、研究施設を建設したり運用するさいに必要な物資について、中央省庁まで配給切符を取りに行き、研究者自身が必要な物資と交換しなければならないことが具体例として指摘されています。第三が、基礎研究の軽視です。特高警察による監視が強まるなかでも、このような抵抗を行っていたことは注目に値します。

 そこには、杉山も指摘しているように、宇吉郎独自の科学観があったといえます。それは「人の役に立つ研究をせよ」という考え方です。宇吉郎は真理を追究し論文を書くだけの科学は時代錯誤であると考え、時代や社会が求める課題を解決する「目的をもった基礎研   究」こそ重要だと考えていたといわれています(杉山:2015)。

 併せて、私は、黒岩が指摘しているように、大規模な研究施設を建設し、共同で運営することによってはじめて、自然現象に関わるデータを取り出すことができ、それに基づいた理論を導くことができるという、宇吉郎が自らつくってきた低温物理学固有の研究方法にも規定されているように思います(黒岩:1982年)。宇吉郎の教え子の東晃は、宇吉郎の行ったのは「プロジェクト研究」であり、寺田寅彦の「小屋掛け」の研究とはコントラストが明白であると指摘しています(東:1998年)。ましてや理論物理学の秀樹とは根本的に異なっていたといえます。


4.敗戦後の秀樹と宇吉郎

(1) 秀樹の反省と行動

秀樹は、1945年8月15日(水)の日記に、次のように書き残しています(小沼編:2020年)。

  登校 朝 散髪し 身じまいする。
  正午より 聖上陛下の御放送あり
  ポツダム宣言 御受諾の已むなきことを
  御諭しあり。
  大東亜戦争は遂に終結

 最後の「遂に終結」という一文に、秀樹の万感の思いが込められているように思います。しかし、敗戦後、秀樹は、実験物理学の荒勝教授や理化学研究所、東京帝国大学、大阪帝国大学の物理学者とともに米国の原爆調査団の調査対象となります。原爆開発研究にどの程度関わっていたのか、その際、国内の研究施設にあったサイクロトロンが関係していたのか、という点が米軍関係者の関心の的でした。調査は、オッペンハイマーの教え子でマンハッタン計画にも参加したモリソンが顧問となって実施されます。秀樹に対しても1945年9月から12月まで、数次にわたって、「インタビュー」という形で実施されました。秀樹の方は、それが調査であるという認識はなく、訪問者を接遇したという意識だったと言われています。これが軍による秘密裡の「取り調べ」であったことは、機密指定が解除された後の2000年代初頭に、当時ワシントンに滞在していた政池明京都大学名誉教授が公開文書を発見したことで初めて明らかになります(政池:2018年)。

 機密文書とされた、モリソンらの公式報告書では、秀樹は「原爆開発プロジェクトの理論的な仕事を遂行する能力のある最も優れた人物の一人であるが、内気で学究肌の人間なので、アカデミックな研究以外のプロジェクトを自ら進んで動かすとは考えられない」と述べ、それ以上の追及はしませんでした。しかし、全国のサイクロトロンと同様、荒勝が主導してつくったサイクロトロンは破壊され、荒勝の研究資料も押収されてしまったのです(政池:2018年)。

 田中正によると、この頃、秀樹は、深い反省のなかにあったと言われています。その頃のことを、秀樹は、戦後最初の寄稿文である「静かに思う」(『週刊朝日』1945年11月号掲載)を、随筆集『自然と理性』秋田屋に再録する際に、次のように付記しています。「終戦後二カ月ほどの間、色々な新聞や雑誌からの原稿の依頼を固くお辞わりして沈思と反省の日々を送って来た。その間に少し気分が落着いてきたので初めて筆を執ったのがこの一篇である」。その後、秀樹は、様々な場で、戦争に関わった自らの言動を深く反省し、科学や平和に関わる展望を述べた論稿を次々と発表していきます。

 その代表作が、1946年1月発行の『世界』創刊号に寄稿した「自己教育」という表題の寄稿です。原稿は、末尾の付記によれば、45年11月に書かれています。そこでは、田中正が指摘しているように、「知識階級の勇気と実行力の欠如」が戦争の災禍を招いたことへの反省の念が語られています。そのうえで、二度とそのような災禍を起こさないための問題提起を「自己教育」という、大正デモクラシー期の上田自由大学の理念を表す言葉を使って説き起こしていることが注目されます。この点についてのより詳細な経緯については別稿(岡田:2024)に譲り、ここでは「自己教育」での秀樹の問題提起を紹介してみたいと思います。

 秀樹は、知識層の役割として、災害が起きる前に、国民を守るための危険を知らせる「防護林」であるべきだという考え方から出発します。ところが、先の戦争では、その「防護林」が、学問、思想、表現の自由を奪うことによって、国家の手によって「伐採」され、これに対する勇気と正しい批判的力を知識層がもっていなかったと率直に指摘しています。国家に対する「知識層」の自律性の重要性を述べている点は、戦後の日本学術会議の設立にも関わった湯川の信念の根源を見ることができますし、現代日本における日本学術会議への政府による圧力の問題ともつながり、極めて現代的な問題でもあります。

 しかし、湯川は「少数の知識階級」だけの反省に問題を絞っていません。つまり、知識層だけでなく国民全体が、「強烈な意慾を持った精神によって圧倒されてしまった」ことを反省し、正しい批判力、良識と教養を身につける必要があると強調しているのです。

 そして国民誰しもが正しい批判力、良識を身につけるためには「社会教育」に裏付けられた「自己教育」が重要であるとしています。そして、その学びの形態は、先生と生徒という形では固定できないものであり、互いに先生となり、生徒となって、対等に議論し学びあうことが必要だとしている点も注目されます。このことが、戦後の湯川の教育論にもつながっているからです。

 秀樹は、田中正も指摘しているように、敗戦直後から堰を切ったように、戦後本格的に展開する、科学や平和に関わる「湯川思想」の原点ともいえる「珠玉の短編」を次々に発表していきます(田中:2008)。それだけではありません。中学以来の旧友である新村猛とともに、ある行動に移します。

 新村猛は、敗戦直後から精力的に社会的活動を再開します。まず、「人文主義(ヒューマニズム)の精神に基づく理想学園」である「京都人文学園」を設立するために、自宅で準備会を行い、『世界文化』『土曜日』人脈で講師陣を集め、その一人として秀樹も協力します。同学園長には新村猛が就任し、父親の新村出は顧問を引き受けています(新村:1970年)。

 さらに、新村猛と湯川秀樹は、1946年3月の民主主義科学者協会京都支部結成の際にも、共に行動しています。結成記念講演会では、二人が登壇し、新村が「国際平和と民主戦線」、湯川が「人類と科学の将来」と題して講演し、湯川は同支部の顧問となっています。新村猛と歩調を合わせる形で、湯川もまた行動する科学者となりつつあったのです(松尾:2002年)。

 1948年に入り、米国のプリンストン高等学術研究所のオッペンハイマーから、秀樹を客員教授として招聘したいという依頼があり、秀樹はスミ夫人とともに、渡米します。オッペンハイマーは「原爆の父」ともいわれた人物であり、原爆を投下した日本の秀樹や朝永振一郎を高く評価したと指摘されています(『日本経済新聞』2023年10月1日付Science欄)。秀樹は、同研究所でアインシュタインと再会することができました。アインシュタインは「ドクター湯川、そしてマダム湯川、核兵器全廃のために、私たちは全力をあげよう。そしてその方法は、世界が一つになること、一つの連邦国家となることしかない」と語りかけたそうです。このことは、秀樹の遺作となった『本の窓』夏号(1981年)に書かれています。このことも、後の秀樹の行動を大きく規定していくことになりました。

(2) 敗戦後の宇吉郎と研究と生活

 敗戦は、宇吉郎の研究や私生活にも、大きな打撃を与えます。再び、杉山の叙述を借りて、その状況を述べてみたいと思います(杉山:2015年)。

 宇吉郎が中心となってつくった北海道帝国大学低温科学研究所の研究施設は、1945年10月に札幌に進駐してきた占領軍によって接収され、研究員の行き場がなくなります(46年11月に接収は解除されます)。軍や技術院とともにつくったニセコ山頂にあった研究施設の解体も、目前に迫っていました。そこで、宇吉郎は、渋沢敬三、石黒忠篤や武見太郎、鳥井信二郎らの人脈をたどり、寄附を募り、財団法人・農業物理研究所を、1946年2月に急ぎ、設立します。同研究所の目的は、物理学を農業に適用し、とくに天候による影響を人工的に克服し、戦後求められた農産物の増産に資するところにあると、述べられています(中谷:1946年)。この研究所の設立は、戦時中に研究施設で働いていた多くの職員の生活を維持することと、そのために軍事研究施設ではないことを明らかにすることが目的であったのではないかと、杉山は『石黒忠篤伝』を引用しながら述べています。

 なお、この研究所の本部は、札幌市の宇吉郎の自宅に置かれ、ニセコ(当時は、狩太村)には支所が置かれます。さらに、同村の有島農場はじめ北海道内5か所に分室が置かれました。そして、宇吉郎一家も、札幌から移り、有島農場の一角に住みました。しかし、そこで11歳の長男が病を得て、治療のために再び札幌に戻りますが、帰らぬ人となってしまいます。

 農業物理研究所は、戦時中から働いていた職員たちの就職もすすみ、経営難も続いたことから1950年に解散しています。この間、経営支援をしてくれた農林省農業総合研究所が、札幌の宇吉郎の自宅を継承し、北海道支所を置くことになります。それだけでなく、農業物理研究所での調査研究活動は、宇吉郎の新しい活躍の場をつくりました。

 同研究所では、1947年8月15日に発生した石狩川支流・忠別川の洪水被害の総合的調査を、低温科学研究所、理学部、農学部、工学部、札幌気象台との共同研究として開始します。その成果は、1948年に『水害の総合的研究』と題する調査報告書としてまとめられますが、宇吉郎はそれも参考に「国土の科学」という研究計画をつくります。これは、アメリカでのTVAによる水資源総合開発政策を参考にして、日本でも経済安定本部の下に資源委員会をつくり、河川総合開発計画を策定する動きが始まっていたことと関係していました。

 実は、この経済安定本部の建設局長に、東京大学に移籍して経済安定本部の顧問もしていた茅誠司も口添えもあって、宇吉郎の友人である高野與作が、着任していたことも大きかったといえます。杉山によると、先の忠別川の洪水調査の調査費も、経済安定本部から獲得することができたといいます。そして、宇吉郎自身も、1948年3月に資源委員会の委員に就任しています(杉山:2015年)。また、宇吉郎一家は、1948年9月、北海道から東京都内原宿に居を移し、宇吉郎は単身赴任の形で、北海道大学で仕事をするようになっていました。原宿の家の隣には高野與作一家が住み、互いに支え合ったといいます(中谷健太郎談)。

 一方、48年2月頃、宇吉郎の元に国際雪氷河委員会のチャーチ会長から手紙が届きす。9月にオスロで開催される同委員会総会に参加して、最新の研究成果を発表してほしいという依頼でした。宇吉郎は、戦前の映画をさらに進化させた映画を制作し、それを上映することも含めて出席に向けた準備をはじめます。

 ところが、この映画制作をめぐって北大内部で大きな問題が起こります。『北大百年史』の部局史には、次のように書かれています。「人工雪の研究に当たって、米国のG・E研究所が米空軍からの研究費で購入した映画フィルムを中谷に提供していたことが、当時の平和運動に熱心であった研究者らの間で問題となった。中谷の学外における幅広い活動は、当時の低温研の若手教授団の、研究所本来の枠の中での研究一筋の行きかたとしだいに相容れなくなり、ついに彼は第一部門の兼任教授を辞して、1949年4月理学部の専任にもどった」と。

 加えて、当時の出国管理手続きの厳しさや外貨の確保の難しさもあって、予定通りの渡航は実現できませんでした。宇吉郎は、オスロ行きを諦めて、アメリカ、カナダへの出張を再度企画し、出入国手続きを進めますが、高野や宇吉郎の洪水調査研究費が、北海道の共産党支部に流れているという噂が国会内外で広がったこともあり、ビザがなかなか出ないという事態にもなります(杉山:2015年)。

 結局、その誤解も解けて、宇吉郎は、1949年7月~10月に、アメリカ、カナダの研究施設やチャーチ博士などの研究者だけでなく、TVAにも訪問することになります。そして、9月にニューヨークの秀樹の仮住まいに3日間、滞在し、文人墨客を楽しんでいます。秀樹は、プリンストン研究所から、コロンビア大学客員教授としてニューヨークに来ていました。彼らが遊んだ1か月後に、秀樹のノーベル物理学賞受賞が発表されるというタイミングでした。当時、日本のマスコミは、簡単に国外に取材旅行に行けない状態でした。そこで、読売新聞は、宇吉郎と秀樹夫妻が映っている、この時の写真を借用して、紙面に掲載したという逸話もあります。

 帰国した宇吉郎に、もう一つ嬉しいニュースがありました。翌年の1月に、オスロの学会で上映するために、宇吉郎が主導して撮った「霜の花」を制作した日本映画社教育映画部が「昭和23年度 朝日賞」を受賞したのです。これを機に、宇吉郎は科学映画、教育映画づくりに本格的に取り組むようになり、後に岩波書店社長となる小林勇や羽仁進らと岩波映画製作所をつくります。1950年5月のことでした。

 宇吉郎は、研究面でも対象を広げ、海洋研究、とりわけ潜水探測機の開発に、教え子の井上直一らと共同で取り組みます。宇吉郎の興味は、北海道の水産業の振興にあり、1949年に函館にできた北海道大学水産学部の教授となっていた井上らと、その具体化を図ったのでした。

 そして、1952年6月から2年間、宇吉郎は、アメリカのシカゴ近郊にできた雪氷永久凍土研究所(略称:SIPRE シプリ)に招聘され、1年の予定で氷の研究を行うことになります。SIPREは、アメリカ軍の一組織であると同時に、ミネソタ大学の研究者も協力し、基礎研究にも力を入れていました。そこで雪氷研究で国際的に著名であった宇吉郎の招聘がなされたと考えられます。

 アメリカには、数カ月遅れで、静子夫人と3人の娘たち(2人は大学生、1人は小学生)もやってきて一緒に住みます。原宿の自宅には、ちょうど由布院から高校を卒業し、明治大学に入学した中谷健太郎が上京し、留守宅を護りました(北國新聞社:2018年)。

 SIPREでの雪氷の研究は快適であり、さらに1年、在外研究の延長を北海道大学に申請します。これが認められ、宇吉郎は都合2年間、アメリカでの研究を続けることになります。その研究も終わりに近づいた頃、宇吉郎は北海道大学低温科学研究所の吉田順五所長にある問い合わせをします。アメリカ空軍から研究費をもらい「氷晶成長の定量的研究」を同研究所の施設を借用してできないかという内容でした。この問題は、学内外で猛烈な反発を受けることになります。5月10日、同研究所所員会議は「こうした研究費を受け取って研究することは認められない」として宇吉郎の申し出を全面的に断ります。とくに東西冷戦体制が強まる中で、日本でも軍隊の創設が言われている状況の下で、再び科学者の軍事動員がはじまることへの危惧の念が多く出されたといわれています(杉山:2015年)。また、同日付で、民主主義科学者協会札幌支部物化部会も、「死の科学者になるな」というタイトルでの声明書を発出しました(『学園評論』1954年7月号掲載)。

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