おわりに
松明の火は受け継がれた

<創刊の辞>
- 真のジャーナリズムとアカデミズムの源流・京都の地から-

岡田知弘 (京都大学名誉教授・京都橘大学教授)

「憲法を暮らしの中に」を掲げた京都府庁

 『世界文化』も『土曜日』も、特高警察による弾圧で、わずか2~3年の出版活動で終わった。その後、大学や京都盆地を含め日本全体が戦時体制の下で統制・動員され、学問の自由も、思想・表現の自由も圧殺されることになった。京都帝国大学文学部哲学科出身の戸坂潤や三木清は、終戦前後に相次いで獄死し、永遠に口を封じられてしまう。

 しかし、生き残った『世界文化』・『土曜日』の同人・執筆者たちは、それぞれに真のアカデミズム、真のジャーナリズムを追求し、それぞれの分野、場で活躍し、松明の火を広げていくことになる。真下信一や新村猛は大学の学長になり、多くの著書を出して、若者に影響を与えた。新村は、労働者の学びにも力を入れて京都人文学園(後の京都勤労者学園)を久野収、住谷悦治らと設立する。能勢克男は、国内最左派の新聞といわれた『夕刊京都新聞』を創刊し編集長となるほか、自由法曹団京都支部や京都洛北生協(京都生協の前身)の設立に関わり、京都生協の理事長を務めることになる。また、久野収は、在野で『思想の科学』を出版したのに続き、読者参加スタイルの『週刊金曜日』を筑紫哲也・本多勝一らと創刊する。

 執筆者の多くがペンネームだったが、その中には、例えば、清水焼の陶工から小説家となり、戦後、京都1区の衆議院議員を6期務めた谷口善太郎や、戦後の京都大学経済学部再建に寄与し、のちに自治体問題研究所を設立し、理事長として活躍した島恭彦がいた。

 さらに、『世界文化』や『土曜日』の読者からも、戦後の復興や民主化を担った人々が生まれたことにも注目しておきたい。例えば、武谷三男が『世界文化』に発表した自然の弁証法に関する論文は、湯川秀樹の共同研究者であった坂田昌一の素粒子理論に多大な影響を与え、名古屋大学で坂田昌一の薫陶を受けた益川敏英らにも大きな影響を与えたといわれる(田中正『湯川秀樹とアインシュタイン』岩波書店、2008年)。なお、武谷も、久野らの『思想の科学』の創刊に関わりながら、日本学術会議会員として原子力の平和利用について精力的な活動を展開した。

 とくに戦後復興期においては、京都に住む科学者たちの活躍が目立った。彼らは、民主主義科学者協会京都支部に結集した。1946(昭和21)年3月に同志社大学で開催された結成記念講演会では、新村猛とともに湯川秀樹も登壇している。湯川もまた行動する科学者となりつつあったのである(井ケ田良治・原田久美子編『京都府の百年』山川出版社、1993年)。

 政治の分野でも、新たな展開が生まれた。京都では、労働団体と民主団体が中心となり全京都民主戦線統一会議(民統会議)が結成され、1950(昭和25)年には高山義三京都市長に続き、蜷川虎三京都府知事を誕生させることになる。

 批判的精神の火は、同人や読者の個々の人生のなかで燃え続けただけではない。それが生み出された京都の土地において、戦後、大学や研究者、学生が増え、多種多様な労働組合や市民団体、経済団体、文化団体が育つ中で、松明の火は受け継がれ、広がっていったのである。冒頭で紹介した『ねっとわーく京都』も、バブル経済の下で、京都の街が「危機」に陥るなかで、京都市職労の発案で多くの研究者や弁護士、労働・市民団体の協力によって生み出され、続いてきたものであり、『世界文化』と『土曜日』の潮流の一つであったといえる。

 いま、その雑誌が事実上廃刊となった。だが、コロナ禍の下で、第二次安倍政権以来の改憲への動きや惨事便乗型のコロナ対策が横行し、それが京都府・市政でも再現され、府市民の命と健康が軽視されている。かつての「非国民」という言葉が「反日」という言葉が置き換わり、国による研究、大学への統制が強まり、批判的精神を失った制度化され、思い付き的なアカデミズムが流行し、大手マスコミは読者・広告離れで経営が悪化するなかで批判精神を失った「大本営発表」情報を垂れ流す傾向を強めている。

 今の日本の様相は、まさに『世界文化』『土曜日』のそれと同質の「危機」を示していると思うのは私だけではないだろう。この京都の地で、改めて、世界、日本、足元の地域の状況や学問のあり方、ジャーナリズムのあり方を批判的に分析し、共感できる人々と議論し、読者と執筆者が相互交流し、互いに高め合って、それぞれの分野や地域をよりよいものにしていく運動が求められているといえる。そのための共同のプラットフォームを、現代の情報技術を活用してつくりあげることは、ひとつの歴史的必然ではないだろうか。

 どうか、多くの人々のご協力によって、この新しいジャーナルを育て、松明の火を広げていただきたいと思う。