第3回 歴史と自治体公衆衛生政策再建の糸口
中村 暁(京都社会保障推進協議会 医療部会)

4 日本における公衆衛生政策の歴史経緯

(1) 公衆衛生政策と国家権力

 「集約化」の側面からのみ捉えると地域保健法は保健所数を減少させた稀代の悪法だったことになる。しかし地域保健法制定に至った経緯には何かしら国からみてそれを必要と考える国民の健康課題があったはずである。問題なのは、それが公衆衛生政策の必要性の観点から立案されたものだとしても、それが「より大きな国策」に従属させられ、その意図が歪められることである。
歴史をみれば保健所は国策に翻弄されてきた存在であり、国家による「感染防止策」にも、時の権力の「本質」が滲みしている。
 よく知られた例として、明治期のコレラパンデミックがある(注6)。明治維新から10年が経過した頃、既に文政5年にも見舞われたコレラが大流行し、その制圧が国家的課題となった。当時まだ保健所はなく、「健康ヲ看護シテ生命ヲ保全セシムル事」の一環に位置付けられた警察行政が伝染病予防に従事した。有効な治療法もなく、感染した大半の人が生命を落とすのが現実であり、国は患者を隔離収容施設(避病院)へ警察権力が強制隔離し、患者が発生した家屋への病名票貼付、家屋前の交通の制止、密告の励行といった強権策で抑え込みをはかった。ある企業に至っては、労働者が感染すると生きた者も死んだ者も大鉄板で焼いたとの記録もある。こうした「感染拡大防止策」に対し、民衆の怒りは爆発、「コレラ予防反対」一揆さえ起こったという。日本の衛生行政は、紆余曲折を経ながらも1937年の旧保健所法制定による保健所創設へ結実するが、伝染病予防が警察の手から離れるのは戦後を待つことになる。
 感染症制圧は「人と人の接触を避ける」ことを必要とし、「隔離」を伴う。今日の感染症法がその前文に「我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要」と記し、「感染症の患者等の人権が損なわれることがないよう」しつこく謳っているのに表れているとおり、感染症制圧、そのための隔離とは、人権の制約・侵害と常に背中合わせなのである。
 感染症拡大に対し、国家の安全、あるいは社会の安全を守ることのみに重きを置けば、国家政策と人権は必ず衝突する。働くこと、生活すること、人とふれあい、かかわって生きることと感染症対策を正面衝突させてしまう。また一方で、感染症の恐怖が感染した人を忌避したり、敵視したりする「空気」が生みだされる。
 だからこそ確認しておかねばならないのは、今日の感染症対策も含めた公衆衛生政策とは、あくまで日本国憲法、とりわけ第25条に基づき、国家による生存権保障の一環としての公衆衛生政策として進められなければならないということである。

(注6)コレラ患者数は明治10年に13,816人、12年に162,637人とのデータがある。『医制八〇年史』。

(2) 西洋医術採用と「医制」

 日本における公衆衛生政策は、明治政府の西洋医術採用と「医制」(1874)に端を発する 。「医制」は医事衛生行政が整っていなかった維新後の日本に、欧米型の医療制度を導入しようとしたものだった。「医制」発布前の1870年から、幕府の諸藩が天然痘の予防接種(種痘)を奨励してきた前史があり、それを引継ぐ形で「医制」の下、東京・京都・大阪に地方衛生行政機構が整備され始めた。機構には医師らが医務取締に選任され、各地の習俗および衣食住について衛生監視を行った。1879年には医師を内務省に招集し、「中央衛生会」を開催。同会の恒久的機関化と地方に衛生課を設置するよう上申。各府県に「地方衛生会」、町村に公選の「衛生委員」を設置させることを決めた。多くの公衆衛生関係者は「衛生事務の中心は市町村自治体であり、市町村自治体、あるいはその住民の自覚のもとに実施され、発展するのが真の公衆衛生行政である」との考え方に立っていたとされる。

(3) 戦争遂行体制の機関としての保健

 保健所の直接の起源は1935年、米国のロックフェラー財団の資金援助を得て、都市保健館が東京京橋に、農村保険館が埼玉県所沢に設置されたことからである。これらを先駆けに1937年、保健所法が制定され、結核予防・母子衛生・栄養改善を中心に、健康相談・保健指導を行う保健所事業は開始された。この段階から既に、保健所は伝染病のみならず、当時の公衆衛生の到達・知見から保健所は衛生全般を取り扱う機関として方向づけられていた。

 だが1937年とは盧溝橋事件の年であり、日本が泥沼の侵略戦争に突き進む決定的転機の年であった。1938年には厚生省が設置されたが、戦争遂行のための健兵・健民政策が採られる下での内務省からの独立であり、戦争のための人的資源を直接的管理・管轄する行政機関としての誕生であった。また同省設立には、それまでの内務省と陸軍の衛生行政・体力づくりの覇権争いに対する折衷的な意味合いもあったとされている。こうした中、保健所自身の役割も戦争勝利のための国民の体力づくりとなり、全国の徴兵検査成績を監督する役割を担った。1944年10月には全国の保健所網が完成したが、戦争の進行につれ、人員資材が不足し、戦災を被り、機能が壊滅したまま1945年の敗戦を迎えた。

(4)戦後の再出発と日本国憲法

 敗戦直後の日本は、疎開先からの帰郷、海外からの復員で混乱。発疹チフス、痘瘡等の伝染病が蔓延し、食糧不足で栄養状態も悪く、極めて低い公衆衛生水準となった。
 占領下の1945年9月、GHQは覚書「公衆衛生対策に関する件」を発し、敗戦後の公衆衛生活動の多くを保健所が担うものとした。これが後述する地域保健法制定までの間、保健所の在り方の基礎となっていく。壊滅した保健所はそれまでの770カ所を675カ所に整理し、これを基礎に再出発した。その後、GHQは1946年に「保健及び厚生行政機構の改正に関する件」、1947年に「保健所機構の拡充強化に関する件」を発出。保健所法も全面改正され、1948年1月から施行された。これらに先立ち、食品衛生・急性伝染病予防等の衛生警察業務が警察から衛生部門に移管された。ここで保健所は地方における公衆衛生上の指導業務と行政事務を一体的に実施する機関となったのである。
 ここで重要なことは、大きく転換したのは「保健所」の存在理由そのものであるという点である。それまでの戦争遂行のための機関から、生命と健康を守るための機関へ。国家による基本的人権の保障、即ち社会保障としての公衆衛生政策を体現する存在へと変化し、今日に至っている。

日本国憲法 第 25 条
① すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
② 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

(5)公衆衛生の「黄昏」 疾病構造の変化と新自由主義改革

 しかし、1957年には早くも「公衆衛生の黄昏」が論じられるようになる。これは1961年に控えた「国民皆保険」に厚生省予算が割かれる可能性を危惧したものとされるが、その背景には公衆衛生政策の発達と医学の進歩による「疾病構造の変化」があった(図⑥)。
 「結核」は1950年代後半には死亡理由の上位から姿を消し、「悪性新生物」等の「非感染性疾患」が健康課題の上位へ位置付けられるようになっていく。重視されるようになったのは高齢化への対応であった。国は1978年に「国民健康づくり運動」をスタートさせ、市町村を実施主体にした健康づくり対策を目指すとして、その拠点である市町村保健センターの設置を進めた。
 以来、保健所と保健センターの役割の整理が始まり、それまで保健所が担っていた対人援助サービスが市町村保健センターへ移管されていくことになる。 
 1983年、国は老人保健法を成立させた。
 老人保健法は、当時厚生省を悩ませていた老人医療費無料化制度を廃止するための方策として導入された一面を持ち、他面では健康相談・健康教育・機能訓練サービス等、高齢者の健康づくり施策の推進をもたらした。
 老人保健法における事業を担ったのも、保健所ではなく「市町村」であった。市町村が健康づくり、老人保健、母子保健等の対人援助サービスを担い、都道府県は広域的な計画策定、調整を担うという体制はさらに形づくられていき、1994年に厚生省は本格的な法改正に踏み切ることになった。それが保健所法を改正し、制定された「地域保健法」である。
 地域保健法に基づき国の策定する「指針」が、保健所設置数を人口10万人に1カ所から二次医療圏に1カ所へと変更したことで保健所数は大きく減少し、保健所と市町村保健センターの役割分担が法的に整理されたのである。
 しかし地域保健法への移行は、橋本龍太郎政権(1996年)が発動した新自由主義改革(構造改革)による医療・社会保障への国庫負担削減路線と合流してしまう。

 新自由主義改革は、グローバル経済のもと、日本の大企業の海外進出を助けるため、国内のあらゆる制度、規制を改変し、国の姿を転換するものだった。橋本行革は国の財政を大企業支援に振り向け、利潤追求の妨げを最小限に抑えるための社会保障費抑制を志向した。
 そのような中、1995年に厚生省・社会保障制度審議会は社会保障制度の理念を大きく転換する勧告を発した。「社会保障制度は、みんなのためにみんなでつくり、みんなで支えていくものとして、21世紀の社会連帯のあかしとしなければならない。これこそ今日における、そして 21 世紀における社会保障の基本理念である」。そのように権利としての社会保障、即ち国家責任による社会保障は、助けあいを基調とした「社会保障」へと理念後退されたのである。
 尚、こうした背景の下、新自由主義改革の流れに乗り、保健所の必置規制廃止を目指す動きさえあったことを記しておきたい(注7)。1996年3月、地方分権推進委員会の中間報告が「保健所の必置規制」「保健所長医師要件」の廃止を打ち出したのである。同時に報告は、保健所長の医師要件の見直しについても次のように述べている。「事務の遂行のために一定の資格・職名を義務付けているもののうち、例えば、保健所長の医師資格、図書館長の支所資格など、当該資格規制がなくても事務の遂行に支障がないと思われるもの見直しを図ることとする」。
 1995年の社会保障制度審議会勧告に基づき、「社会福祉基礎構造改革」が進められ、社会福祉法改正に続き、高齢者への医療・福祉に対する抜本的な改革が行われた。これが介護保険制度の創設である。
 介護保険創設によって、従来、市町村の保健センターや福祉事務所が担ってきた高齢者福祉が、民間の介護事業者に委ねられることになった。地域保健法により、保健所から保健センターへ移管された仕事が、今度は民間に託されることになったのである。これはもちろん、保健センターの対人援助サービスの縮小につながった。
 2006年、小泉純一郎政権は「医療制度構造改革」を本格推進し、老人保健法の廃止と後期高齢者医療制度創設。市町村の基本健康診査の廃止と各医療保険者を実施主体とする「特定健康診査・特定保健指導」創設がなされた。これらはいずれも地域保健活動を進めるための重要な仕組みだったが、これをも構造改革は破壊した。

(注7)廃止を検討すべきと挙げた必置規制の例に「保健所・児童相談所・福祉事務所」があった。

5 コロナ禍が突きつける課題-自治体公衆衛生政策再建の糸口とは

(1)保健所機能の再生へ

 以上に見てきたように、日本の公衆衛生政策の中核機関である「保健所」の歴史は、国策に翻弄されてきた歴史である。戦争協力に組み込まれ、戦後には伝染病制圧委ねられ、早々に「黄昏」といわれ、業務の多くを市町村に移管され、その業務が民間委託され、その結果、痩せ細った保健所が残った。だが「感染症対応」は保健所の業務であり続け、不十分な体制のまま、コロナ禍に見舞われて疲弊してしまった。
 コロナ禍は国・地方自治体の公衆衛生政策の重要性を見直す契機である。人々が生き、幸福に暮らすための基礎的な社会保障サービスとしての公衆衛生政策を再生するための政策提言と運動が必要なのである。
 あらためて、原点に返ってみたい。
 アメリカのウインスロー(1877~1957)は公衆衛生を次のように定義した。「公衆衛生とはサイエンスでありアートである。いずれも組織化されたコミュニティの努力によって、疾病を予防し、寿命をのばし、健康づくりと諸活動の能率を高めるためのものである」。その上で、「組織化されたコミュニティの努力」の対象として、5つのことを述べている。第1に、環境衛生(トイレの使用など)の改善。第2に、コミュニティにおける感染症のコントロール。第3に、衛生の諸原則に基づいた人々の教育。第4に、疾病の早期診断と予防的治療のための医療と看護サービスの組織化。第5に、コミュニティに住む一人一人が健康であり続けられるように適切な生活水準を保障できる社会制度の開発、である。
 「コミュニティ」の問題に注目したい。
 WHOのガイダンスは「公衆衛生上の対応において最も重要かつ効果的な介入の1つは、予見的かつ積極的に情報を伝達することである」と述べ、そのことが「インフォデミックを防ぐことに役立ち、適切な行動への信頼を構築し、健康に関する助言に従う割合を高める」と述べている。
 人々は孤立し、感染への恐怖と明日からの生活の糧に困窮し、不安の渦に投げだされている。身近な行政体である地方自治体が地域の中に入り、住民とつながり、住民同士をつなぎ、行政と住民が一体となって感染症に対抗する施策を進めることが必要であり、その保健所に求められている。そして保健所が地域の医師とともにすべての人々の生命を感染症から守る新しい公衆衛生体制を作り上げなければならない。
 そのためには保健所がアウトリーチ機能をもう一度取り戻す必要がある。医師も含めた専門職の人員増をはじめ、体制強化を図ることがどうしても必要である。
 実のところ国は、2008年に流行した新型インフルエンザ対応の結果を踏まえ、報告書を2009年6月10日に取りまとめていた(注8)。総括文書には、国立感染研究所や検疫所、地方自治体の保健所や地方衛生研究所等、感染症対策にかかわる危機管理を専門に担う組織や人員の大幅な体制強化や米国CDCを参考にした「より良い組織や人員体制」を目指すことが打ち出されていた。その教訓が生かされていたら、今日のコロナ禍対策は様相が違ったはずである。以降の政権が徹底してサボタージュしたのは新自由主義改革の枷から逃れられなかったためであろう。その点からも、あらためて社会保障としての公衆衛生政策を日本に根付かせるための政策研究と運動が強く求められている。ここまでに述べてきた保健所を中心としたリスクコミュニケーション策とコミュニティ再生に向けた検討は、その糸口になるはずである。

(注8)新型インフルエンザ(A/H1N1)対策総括会議 報告書 (平成22年6月10 日)。

(2)急がれる感染症法における「良質かつ適切な医療の保障」の実現

 同時に急がれるのは感染症に罹患した患者への「良質かつ適切な医療」保障が、「感染症法」(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)に基づき、公的責任のもとに行うことである(注9)。  
 同法が施行されたのは1999年4月。それ以前は「旧伝染病予防法」(1897年・明治30年施行)が感染症対策の基本法だった。旧法は「集団の感染症予防」に重点を置き、感染した者を社会防衛として「隔離」するための法律という側面を持っていた。
 現感染症法は、「らい予防法」(1996年廃止)の引き起こした人権侵害等への反省も踏まえ、感染症罹患患者を隔離する規定がある一方、患者が入院し「良質かつ適切な医療を受ける」ことを明記(=権利としての医療保障)。旧法から新法へは、隔離中心から治療中心への法整備の転換である。
 しかし同法並びに同法に基づく国の運用では、新型コロナ禍に対応できるだけの十分な医療体制が準備されなかった。
 例えば、1990年にあった感染症病床は12,199床だったが、2019年には1,809床に激減。つまり現実にはコロナ禍のような新興感染症パンデミックは想定されず、体制整備がなされてこなかったのである。
 中長期的には、指定感染症病床の在り方や、感染症や救急医療に従事する専門医の養成など、課題は山積しているが、当面避けがたい自宅療養患者の増加に対応するための体制を実現する必要がある。この点について京都府保険医協会の2021年11月の提言は5つのことを具体的に提起している。
 
 これを最後に紹介し、本稿の結びとする。

1) コロナ禍の収束が見られるまで、保健所が主導し、市町村・地区医師会はじめ地域におけるすべての医療・福祉関係団体と「コロナ禍対策地域包括ケアネットワーク」(仮称)を立ち上げ、感染拡大時の役割分担、連携体制を決めておくこと。

2) 上記の連携体制においては、自宅療養者に対しては「健康観察」でなく、地域の医療者による電話・オンラインを用いた「医学管理」を基本とし、入院・入所できない場合等、必要に応じて往診も可能とする体制とすること。

3) 日常から介護サービスや障害福祉サービス等、特にケアを必要とする人たちが陽性となり、なおかつ入院できない場合は、自宅療養中であっても、サービスが継続され、 ケアの水準が低下しないようにすること。この際、サービス事業者と基礎的な感染予防策の共有、必要資機材、休業補償等を公的に準備すること。

4) あわせて、自宅療養者と濃厚接触による自宅待機者、およびその家族に対しては、市町村(保健センターも含む)の担当者による、食事、買い物、子どもたちの通園等、基本的な生活行為に対する支援と、あらゆる困りごと対応を行うこと。

5) 京都市のような政令市においては、行政区単位に以上の取組を行えるよう、集約化した保健所機能の一部を区役所に戻すこと。

以 上

(注9)感染症体制の見直しと保健所再生を(第2次提言)」(京都府保険医協会)は同協会のホームページから全文閲覧可能。https://healthnet.jp/informations/informations-35160/

(なかむら・さとし)
福祉国家構想研究会

〈参考文献〉

  • 『病気の社会史―文明に探る病因 』(岩波現代文庫)立川昭二著
  • 「障害とは何か 戦力ならざる者の戦争と福祉」(藤井渉著・法律文化社)
  • 『自治体病院の歴史』(伊関友伸著・三輪書店)
  • 「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)への対応」(京都府山城南保健所所長 三沢あき子著、『相楽医報』第186号所収・2020年8月19日)
  • 『改定新版 公衆衛生 ―その歴史と現状』多々良浩三・瀧澤利行著、財団法人放送大学振興会
  • 「2020-09-15 基礎研 レポート 感染症対策はなぜ見落とされてきたのか 保健所を中心とした公衆衛生の歴史を振り返る」 保険研究部 ヘルスケアリサーチセンター 主任研究員 三原 岳 (03) 
  • 『系統看護学講座 公衆衛生』(医学書院)
  • 『安倍医療改革と皆保険体制の解体』(岡﨑祐司・横山寿一・中村暁著、大月書店)
  • 「保健所及び保健所長の医師資格要件等の歴史的変遷について」(第5回保健所長の職務の在り方に関する検討会資料・2003年10月16日) 

https://www.wam.go.jp/wamappl/bb13gs40.nsf/vAdmPBigcategory30/49256FE9001AC4C749256DC20021C827?OpenDocument
2020年1月7日閲覧

  • 『定点観測 新型コロナウイルスと私たちの社会』(森達也編著、論創社)
  • 『コロナ後の世界を生きる』(村上陽一郎編・岩波新書)