蜷川虎三と水産
乾 政秀(楽水会編集委員、㈱水土舎最高顧問)

論陣を張った助教授時代

 助教授になった翌年、1928(昭和3)年3月から1930(昭和5)年5月にかけて蜷川はドイツに留学する。

経済学を学んだ蜷川は、日本に戻ると、伊谷以知二郎の期待に応えるかのように矢継ぎ早に水産経済関係の著書を著わしている。1931~1940年にかけて出版した図書は次のとおりである。このうち「水産日本の話」は1934(昭和9)年4月から1938(昭和13)年5月の間に京都放送局からラジオ放送した内容をとりまとめたものだった。

1931(昭和05)年:水産経済論、経済学全集第13巻(改造社)
1932(昭和07)年:漁村問題と其対策(立命館出版部)
1933(昭和08)年:水産学全集第11巻、水産経済学(厚生閣書店)
1934(昭和09)年:漁村の更生と漁村の指導(政経書院)
1938(昭和13)年:漁業経済講話、水産日本の話(大日本水産会)
1940(昭和15)年:漁村対策研究(甲文堂)

 また精力的に水産関係の執筆活動を続け、確認された範囲だけでも、発表した論文は以下の通り25報にも及ぶ。蜷川の論文を調べた対象は、水産講習所の同窓会誌「楽水」、水産社が発行していた「水産公論」という雑誌、大日本水産会の機関誌「水産界」、帝国水産会の機関誌「帝水」、京都帝国大学経済学会の「経済論叢」である。「楽水」は、当時日本水産学会や日本海洋学会、漁業経済学会などは存在していなかったので、学術雑誌と同窓会誌という2つの性格を有しており、一般に市販されていた。なお、水産公論は戦後廃刊、帝水は1943(昭和18)年に廃刊になっている。

つまり、この水産経済への積極的な発言や著書を著わした1932年から1941年は、蜷川が35歳から44歳に相当し、人生の中では最も脂の乗った時期に相当する。

  • 蜷川虎三(1932):沿岸漁業者問題,経済論叢38(3).京都帝国大学経済学会
  • 蜷川虎三(1932):論壇 座談会の記事を読んで.楽水27(4).楽水会.p.59-65.
  • 蜷川虎三(1932):水眼鏡 法律を弄ぶ者,楽水27(8).楽水会.p.80-81.
  • 蜷川虎三(1932):論壇 水産と時の問題.楽水27(10).楽水会.p.37-41.
  • 蜷川虎三(1932):漁業組合と産業組合 水産界 No.600. p.1-7.
  • 蜷川虎三(1933):漁業組合論.経済論叢39(1).京都帝国大学経済学会.
  • 蜷川虎三(1933):論壇 「漁業組合問題」論戦観(一).楽水28(2).楽水会.p.37-41.
  • 蜷川虎三(1933):水眼鏡 水産のために.楽水28(2).楽水会.p.69.
  • 蜷川虎三(1933):論壇 「漁業組合問題」論戦観(二).楽水28(3).楽水会.p.61-64.
  • 蜷川虎三(1934):論壇 漁村教育の実際問題.楽水29(4).楽水会.p.57-61.
  • 蜷川虎三(1935):この頃想ふこと.楽水30(8).楽水会.p.7-10.
  • 蜷川虎三(1936):漁業組合制度論,経済論叢43(3),京都帝国大学経済学会.p.338-335.
  • 蜷川虎三(1936):経済更生運動と漁村の問題 -漁業組合運動を起せ-.楽水31(3).楽水会.p.6-10.
  • 蜷川虎三(1936):漁村改造の諸問題,水産公論24(1).水産社.p.2-7.
  • 蜷川虎三(1936):統制経済と水産業,水産公論25(1).水産社.p.100-105.
  • 蜷川虎三(1938):時局下の水産界に寄す(一).水産界No.669.大日本水産会.P.2-7.
  • 蜷川虎三(1938):時局下の水産界に寄す(二).水産界No.670.大日本水産会.P.8-13.
  • 蜷川虎三(1938):時局下の水産界に寄す(三).水産会No.671.大日本水産会.P.13-16.
  • 蜷川虎三(1938):時局下の水産界に寄す(四).水産界No.672.大日本水産会.P.3-6.
  • 蜷川虎三(1938):日本に於ける漁業の地位.帝水17(6),帝国水産会.p.20-30.
  • 蜷川虎三(1938):日本に於ける漁業の地位(2).帝水17(8),帝国水産会.p.2-10.
  • 蜷川虎三(1938):日本に於ける漁業の地位(3).帝水17(9),帝国水産会.p.12-19.
  • 蜷川虎三(1939):時局下に於ける漁村対策.帝水18(9),帝国水産会.p.2-8.
  • 蜷川虎三(1940):漁業用物資と配給統制.帝水19(1),帝国水産会.p.19-20.
  • 蜷川虎三(1940):水産資源の保全について-水産資源論の一課題-,経済論叢51(2),京都帝国大学経済学会.p.152-165.
  • 蜷川虎三(1941):農山漁村共同体論.帝水20(4),帝国水産会.p.2-14.
  • 漁業を観る視点

     当時の蜷川の漁業を観る視点は今日にも通ずる本質的なものである。例えば、「水産日本の話」には、「人々は『海洋は無限の宝庫』などと申しまして、ノンキに構えておりますが、じつは、とれる魚がだんだん減っております(中略)それは、魚の需要の増加に伴い、むやみに捕ったということもありますが陸地の方の変化、例えば森林の伐採、埋め立て工事、流入河川の事情の変化、汚水の流入などの影響もないとは申せません」24と述べている。つまり、漁業管理の必要性を指摘するとともに、水産資源を育む環境の諸問題について当時からすでに危惧しており、今日にも通ずる視点である。

     また、「漁村問題と其対策」では、「即ち、漁業は水界の状態によって支配される結果、(1)漁獲の不安定、(2)沿岸漁業の衰退狭隘化は免れない。従って之がためには、①漁業を支配する水界の諸状態諸条件の作用を明らかにするために、湖沼及び海洋の調査研究を行い、また水界生物の繁殖生長回遊並びにその他の習性に関する研究の発達を図ること、②海洋の状態即ち海況と漁獲の状態形成の観測及び調査の励行、③漁業統計の整備、④沖合及び遠洋漁業への発展、⑤沿岸漁業の養殖化、⑥多角式漁業経営、等を講じて、技術的に漁業の安定を図ると共に、技術的に克服出来ぬ自然条件による支配を経済的に分散し、漁業それ自体の経済的な安定をはからなければ、これによって衣食生活の安定を期すことはできない。」25と書く。④の沖合及び遠洋漁業への発展を除けば、今日に通ずる指摘である。

    ところが、最近になって各都道府県の水産試験場の人員削減などによって多くの関係者の手によって築かれてきた海洋調査(浅海定線調査等)はやめてしまった県が多くなっているし、統計事務所の人員削減によって漁業統計の質は大きく低下してしまっている。現在に生きる水産関係者は蜷川の指摘に改めて学ぶ必要があるのではないだろうか。

    漁業組合論

     蜷川が水産経済面で盛んに論陣を張った時期は、1937(昭和12年)の日華事変を境に戦時統制経済に突入する前後であった。ドイツ留学から帰国した1930年は、その前年に米国における株価暴落を契機として世界恐慌が発生し、わが国の農漁村の不況はきわめて深刻な様相を呈していた。その当時の様子を蜷川は1932(昭和7)年に出版した「漁村問題と其対策」の中で次のように述べている。

    「不幸な百五十万の漁村民は、大衆の支持なく、輿論の後援なく、餓死に瀕している。而もこれら漁村民こそ、わが沿岸漁場を守り、重要なる国民食糧の供給者ではないか」26

    そして沿岸漁村民の救済のためには力の弱い漁村民が団結して協同していく必要性を次のように指摘した。 

     「資力なき漁村民が、孤立して生産を営むことは、この資本主義社会において、没落していくことを意味するものに他ならぬ。自然的条件の支配の強大な漁業において、如何にしてその危険を分散することができるか、その生産物たる漁獲物の商品としての特殊性から、如何にしてその不利益を免れ、しかもこれを有利に転換することができるか、それはただ沿岸の漁業者が相互に協力し、社会的に、個人として弱小なる力を地位とを、協同によって強力ならしむるより他にはない。沿岸漁業者の協力にしてかくこたる経済的協同、そして団結、それが残された唯一の道であり、方法である。」27

     そして、この漁村の更生をどう進めるかが議論となり、漁業法を改正して沿岸漁民が協同して経済活動ができるようにすべきと論陣を張ったのが蜷川だった。当時の大日本水産界の会長は、蜷川が水産講習所を退職した時の所長の伊谷以知二郎(大水会長は昭和3年5月から昭和12年8月)であった。そして伊谷の腹心の部下が木下辰雄(戦後設立された全国漁業協同組合連合会の初代会長で、参議院議員にもなった)であり、この伊谷-木下ラインは漁業組合に経済行為ができるように、漁業法の改正をめざしたのである。この時に学者として伊谷-木下ラインを支えたのが蜷川であった。そして1933(昭和8)年に漁業法の改正が実現して、零細漁民が力を合わせて経済的協同が実現できるようになったのである。

     これらの活動は、水産業協同組合法の制定(昭和23年)、戦後漁業法への制定(昭和24年)へとつながった。そして、全国漁業協同組合連合会(全漁連)が設立され、沿岸漁民を支える組織へと発展していく。なお、オールジャパンの組織であった大日本水産会は、戦後、資本漁業の団体となり、非資本漁業を束ねる全漁連との分離が進み、今日に至る。

    水産経済学の先達

     蜷川は上述したように1933(昭和8)年、厚生閣が出版したわが国初の水産学全集の第11巻に「水産経済学」を執筆している。306頁に及ぶ大著である。蜷川の先生である山本美越乃が1913(大正2)年に経済全書(実文館)の第6編として「水産経済」を著わして以来、「水産経済」や「漁業経済」を冠した図書は、出版されてこなかった。

    蜷川は「水産経済学」の序論で「水産経済学は、経済学の領域において、全く取り残された未開拓の分野である」と書いており、「水産業については、学問的な体系組織をもつところの水産経済学が、一個独立の学問として研究されていないばかりか、水産業に関する経済的な方面の調査あるいは研究さえ甚だ不十分な状態にある」28と記す。つまり「水産経済学」についての本格的な図書は蜷川が初めて書いたわけだ。

    蜷川は同書のなかで、水産業の範囲を定義するとともに、その産業としての特性を論じ、水産経済学の研究対象、経済学全体や水産業のなかでの位置づけ、めざすべき方向を明らかにしている。さらに漁業生産組織、漁場の経済的性質、漁業資本(資金)、生産手段、経営、金融、漁業労働などについて体系立てて論述しており、まさに水産経済学の初めての教科書となった。

     蜷川は、「水産業とは漁業、水産養殖業及び水産製造業を含む産業」と定義し、農業、林業、鉱業と共にこれらを原始産業と呼んだ(自然より財貨を獲得し、これを商品たらしむる生産過程)。

    これら原始産業のうちの農業を経済面から研究する農業経済学の歴史は古く、すでに1924(大正13)年11月に日本農業経済学会が設立されているが、水産業を経済面から研究する水産経済学を対象とする漁業経済学会が設立されるのは1953(昭和28)年8月まで待たなければならなかった。

     漁業経済学会の初代会長は近藤康夫(1899~2005年、当時東大教授、専門は農業経済学)であるが、発足にあたり、「漁業制度改革を契機として、それまであまり多くの研究者の注目しなかった漁業乃至漁村というものが急に研究されるようになったことは終戦後の経済学会の顕著な動きの一つであったが、そのような動きにおいて、イニシアをとったのは水産庁であった」29と書いている。戦後、水産庁は渋沢敬三のアチックミューゼアム(現神奈川大学常民文化研究所)の研究員(中には宮本常一や網野善彦らがいた)の協力を得て、全国の漁村の調査を実施し、これをもとに戦後の漁業制度改革を実施したが、漁業経済学会は「漁業制度改革をめぐる若手を中心として精力的に行われた漁村調査の中から個別事象の積み重ねの理論化を通じて一般化へという経済研究の学問的構築を目指したものであった」29という。

    近藤は1959年に「漁業経済概説」(東大出版会)を著わしているが、蜷川の著作から遅れること26年後のことである。つまり、水産を経済面から研究した先達がまさに蜷川であり、水産講習所の助手をやめる時に、当時の伊谷所長から「水産を経済面から研究することの重要性を説かれた」ことをまさに実現したのであった。

    水産はわが心のふるさと

     戦後、初代中小企業庁長官に抜擢され、さらに京都府知事を7期28年にわたって務め、長期政権を築いた蜷川は、水産から離れて幅広い分野で活動し、大いに飛躍した。その一方で蜷川は、生涯を通じて「水産」を「わが心のふるさと」と想っていたのである。「水産界」に投稿された論文に蜷川の気持ちを端的に表しているので紹介しておこう。

    「水産に育てられて学問というものを知り、産業というものを覗き得た自分にとっては、水産の世界はまさにふるさとであり、他郷苦心多しの他郷から故郷を眺める感慨の深きものがある」。30

    上述したようにドイツ留学から帰国後、水産講習所の同窓会誌「楽水」に頻繁に投稿しているが、同誌についても「だれもが故郷の便りにあこがれるやうな、或は遠くに出ている同胞の消息を待つやうな気持で接し得るものである」31)と期待を込めている。

     そして、蜷川は「わが心のふるさと」の人々を大切にした。公務多忙な知事時代にあっても楽水会京都支部長を務め、ふるさとの人が知事室を訪問してきた折は優先して面会した。ふるさとの住民を大切にしたエピソードを真田健三の「蜷川虎三先輩を想う」より紹介しておこう。32

    1976(昭和51)年元旦に地元テレビ客が新春特別番組を組んだ折、蜷川は対談者について「松井先輩と真田後輩に出てもらえ」との鶴の一声で決まり、松井佳一(近大教授、金魚研究の大家)と真田健三(京都魚市場㈱社長)が鼎談し、当時宮津市に建設中だった海洋センターの話を中心に、漁業振興や水産講習所の想い出、果ては魚の料理の方法まで話をはずませている。また、真田が1969(昭和44)年に黄綬褒章を受章した時の祝賀会に、宴会嫌いで知られた蜷川が出席し、祝辞を述べている。秘書は例外中の例外と驚いたという。

     沿岸漁民や漁村にとって漁業協同組合の必要性を力説し、漁場環境の保全の重要性を訴えた蜷川の期待通り、わが国の沿岸漁業を含む漁業は戦争の痛手から大いに回復した。

    しかし、1980年代後半に1,200万トンを記録したわが国の漁業生産量は、200カイリ体制の確立やマイワシ資源の減少から、その後ほぼ一直線に下降し、2020年の時点では、418万トンと1/3に減少している。戦後、ほぼ200万トンで安定していた沿岸漁業の生産量は87万トンに低下している。そしてわが国の動物蛋白の摂取源の割合は水産物から畜産品へと大きく置き換わっており、水産物から動物蛋白を得ることが日本の立地条件に適っているとの蜷川の主張とは正反対の方向に向かっている。

     蜷川の「心のふるさと」はまさに失われようとしている。蜷川はこの日本漁業の惨状を草葉の陰でどう思っているだろうか。今まさに蜷川の主張に私たちは学び、「心のふるさと」を再構築しなければならないだろう。

    【文献】

    1)吉村康(1982):蜷川虎三の生涯.三省堂.東京.P.18.
    2) 吉村康(1982):蜷川虎三の生涯.三省堂.東京.P.29.
    3) 蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.199.
    4) 中野 広(2011):近代日本の海洋調査のあゆみと水産振興,恒星社厚生閣,東京.P.175.
    5) 東京水産大学(1960):東京水産大学70年史,東京水産大学.p.271.
    6)蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.199.
    7) 宇田道隆(1963):水産と物理学者の思い出、東京水産大学新聞第55号
    8) 草柳大蔵(1970):明治派左翼、蜷川虎三、文藝春秋、第48巻第6号、株式会社文芸春秋、東京.p.125.
    9) 山村夏彦(1976):寺田寅彦先生の思い出,楽水.48-50.
    10) 東京水産大学(1960):東京水産大学70年史,東京水産大学.p.96.
    11) 蜷川虎三(1937):伊谷先生を想ふ.水産界,大日本水産会.P.63.
    12) 松本友雄(1965):楽水だより、堀重蔵氏を偲びて.楽水No.639.楽水会.p.61.
    13)影山 昇(1999):蜷川虎三の水産経済と中小企業振興.成山堂書店,東京.p.27.
    14)東京水産大学(1960):東京水産大学70年史,東京水産大学.p.84.
    15)吉村康(1982):蜷川虎三の生涯.三省堂.東京.P.33.
    16) 蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.26.
    17)蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.27.
    18)草柳大蔵(1970):明治派左翼、蜷川虎三、文藝春秋、第48巻第6号、株式会社文芸春秋、東京.p.127.
    19)蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.28.
    20)蜷川虎三(1937):伊谷先生を想ふ. 水産界654号,大日本水産会.P.64-65.
    21)宮城新昌(1937):仰げば益々高き伊谷先生.水産界654号,大日本水産会.p.115.
    22)蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.202.
    23)蜷川虎三(1979):洛陽に吼ゆ、蜷川虎三回想録,朝日新聞社,東京.p.28.
    24)蜷川虎三(1938):水産日本の話,大日本水産会.東京.p.5.
    25)蜷川虎三(1979):漁村問題と其対策.立命館出版部.東京.p.43-44.
    26)蜷川虎三(1979):漁村問題と其対策.立命館出版部.東京.p.1-2.
    27)蜷川虎三(1979):漁村問題と其対策.立命館出版部.東京.p.60-61.
    28)蜷川虎三(1933):水産経済学,水産学全集第11巻.厚生閣,東京.P.1.
    29)長谷川健二(2015):水産研究のフロントから漁業経済学会の紹介.日本水産学会誌.81(6).p.1014.
    30)蜷川虎三(1938):時局下の水産界に寄す(一).水産界No.669.大日本水産会.p.2.
    31)蜷川虎三(1935):この頃想ふこと.楽水30(8).楽水会.p.7-8.
    32)真田健三(1981):追悼のことば、蜷川先輩を想う.楽水.No.715.P.129-130.