更新!蜷川虎三と水産
乾 政秀(楽水会編集委員、㈱水土舎最高顧問)

プロフィール

昭和23年神奈川県生まれ。同47年東京水産大学修士課程修了。海洋調査会社勤務ののち平成2年に㈱水土舎を設立。代表取締役に就任。漁業振興のコンサルタントとして全国の漁村を巡る。「離島漁業再生支援」「水産多面的機能発揮対策」などの制度設計に携わる。同23年同社最高顧問に就任。現在、全国の有人離島を調査中。千葉県鋸南町で農業も営む。


Ⅰ,水産講習所時代

叔父の勧めで水産講習所へ

 蜷川虎三は1897(明治30)年2月24日、親治・センの3男として、東京市深川入船町七番地(現東京都江東区)で生まれた。姉1人、兄2人の4人兄弟の末っ子であった。父は木場で材木商を営んでいたが、「材木のビジネスよりも釣りの方が好きで、福沢諭吉のところへ出入りし、簿記とフランス語、英語を習っているような」1人物だったようだ。

 蜷川家は芝村藩(現在の奈良県桜井市芝)に仕える藩士、母方の曽祖父はもと水戸藩士で乞われて譜代大名である丹後宮津藩の本荘家に仕えた家柄であった。

 明治小学校、府立3中(現都立両国高校)を経て、1914(大正3)年9月に自宅近くにあった水産講習所本科養殖科に入学した。水産講習所を受験したのは、母方の叔父・飯嶋敬一郎(センの弟)の勧めによる。飯嶋は親治の弟・赤沢三郎を頼ってアメリカに渡り、サンフランシスコで銀行の支店長や邦字新聞を発行していた人物である。飯嶋は一時日本に帰国した折、日本にはじめてリールつきの竿を持ち帰り、「これからは、海の時代だぞ、虎三。どうだ、魚をやらないか。スタンフォード大学のジョルダンという先生が『日本の魚類の研究』って本を書いているが、日本人で魚類の本を書いているのはほとんどいないじゃないか。魚をやったらな、必ず天下の大学者になれるよ」2といって、魚類の研究を勧められたらしい。このことが水産講習所への進学の動機となったようだ。

 ジョルダン(Jordan)は日本魚類学の父として知られている人物で、スタンフォード大学の初代学長である。彼とその弟子たちは来日して日本産魚類の分類学的研究を精力的に取り組み、1900~10年代に700種もの新種を報告している。その後、田中茂穂という魚類学を専攻する学者が現れ、ジョルダン、スナイダー(Snyder)とともに1913年、「A Catalogue of the Fishes of Japan(日本産魚類目録)」を出版し、1,236種を日本産として記載した。

わが国最初の水産教育機関

蜷川が入学した水産講習所は、その前身を水産伝習所といい、1888(明治21)年11月に大日本水産会によって設立されている。設立認可申請書を東京府庁に提出したのは初代水路局長を務めた柳楢悦(1832~1891)である。ちなみに楢悦の3男は民芸運動で名高い柳宗悦だ。初代所長に関沢明清(1843~1897)が就いた。

関沢は加賀藩に生まれ、江戸に遊学して大村益次郎の門に入って蘭学を修め、さらに長崎で学ぶ。加賀藩から留学の密許を得て、国禁を破って英艦の船底に身を潜めてロンドンに渡る。約3年滞在し、明治元年に帰国。1872(明治5)年にオーストリア万博、1875(明治8)年に米国博覧会に出張し、帰国後、内務卿・大久保利通に水産開発がわが国にとって重要な政策であることを建議した。これを受け、1876(明治9)年に内務省に水産係が設けられ、関沢は主任となる。さらに1982(明治15)年には大日本水産会が設立され、水産技術者を養成するための水産伝習所が誕生すると、関沢は小松宮殿下から所長の委嘱を受けた。

関沢はサケマスの人工ふ化放流事業や捕鯨業の発展に大きな足跡を残したが、伝習所設立当時の講師陣には魚類学の内村鑑三、東大に水産学科をつくった岸上鎌吉、初代水産講習所所長になる松原新之助、海藻学の岡村金太郎などがいた。

しかし水産伝習所は、私設協会の手で教育機関を運営するのは不可能であることが自任され、1897(明治30)3月末で閉所される。この間、10期で436人の卒業生を送り出した。伝習所の閉鎖と同時に農商務省に移管され、水産講習所に名称を変更して官立になった。当初は伝習所のあった芝区三田の校舎を若干の修理を加えて使用していたが、1902(明治35)年に深川越中島に校舎が完成している(写真1)。

蜷川が住んでいた家の近くに水産講習所の校舎があり、実験場及び試験地が深川区冬木町にあった。蜷川の自叙伝によると、「あたしのうちのそばに水産講習所の試験地があったんですが、そこの囲いの外から、竿を入れてコイを釣る」3ようなことをしており、子どものころから水産講習所の近くで遊んでいたわけだ。

試験部が1929(昭和4)年に分離独立して国立水産試験場(現国立研究開発法人・水産研究教育機構)になる前まで、水産講習所は、講習部(教育機関)と試験部(試験・研究機関)が並立し、両者が一体となって実業教育をめざしていた点に特徴があった。北海道大学水産学部の前身である函館高等水産学校が設立される1935(昭和10)年まで日本で唯一の水産専門高等教育機関として水産界に多くの人材を供給してきた。ちなみに国立系および私立系の水産系学部や学科が設立されるのは戦後のことである。

戦後、水産講習所は文部省所管の東京水産大学になり、さらに2003年10月に東京商船大学と統合されて東京海洋大学になっている。


写真1 越中島にあった水産講習所(東京水産大学100周年史より引用)

 江戸時代後半になると、捕鯨を中心に欧米の漁船団がわが国の沖合・沿岸域にやって来て水産資源を収奪するようになる。ペリーの来航は、捕鯨船の物資補給の寄港地を求めてのことだった。明治政府はこうした動きに対抗するため、日本漁業の近代化を進めていく。1897(明治30)年に遠洋漁業奨励法を公布して、大型漁船の建造を支援、漁船の動力化、大型化を政策的に進めた。一方、四方を海に囲まれたわが国は水産資源に恵まれ、米と並んで水産物は食料の基本であった。水産資源の安定的利用と同時に、これらを活用して水産物の輸出を進めることも大きな課題であった。

 当時、冷凍冷蔵の技術は未熟だったから、水産物の貯蔵は、塩蔵、素干、煮干などの伝統的加工方法によるしかなかったが、日清・日露戦争を契機に缶詰が登場すると、水産缶詰を輸出し、貿易によって外貨を稼ぐ水産立国の動きが高まっていく。この水産立国を担う人材の養成をめざしたのが水産講習所であった。

 英国からトロール技術を導入して日本水産の中興の祖となった国司浩介、東洋製缶を興した高碕達之助(LT貿易によって中国との外交に尽力)などの水産講習所の卒業生の活躍によって、日本の資本漁業は大いに発展していく。図1は戦前の沿岸漁業(左)と沖合・遠洋漁業の漁獲量の推移(右)を示したものであるが、特に沖合海域を対象とする資本漁業は、この間、著しく発展したのである。

 蜷川が水産講習所に入学する前後(1914年)には、日本水産の前身の田村漁船漁業部が明治44(1911)年に、ニチロ漁業の前身の提商会は明治40(1907)年に、マルハの前身の林兼商店は大正13(1924)年に創業されている(現在、合併によりマルハ・ニチロになっている)。


図1 明治期から戦前までの漁獲量の推移(左:沿岸漁業、右:沿岸漁業以外)
「近代日本の海洋調査のあゆみと水産振興」より引用4

  蜷川が入学した時の水産講習所の所長は、第4代目にあたる下啓介(1857~1937)であった。下所長は「水産教育の中に水産科学の知識を深めようとして各界の権威者に対して講師を委嘱」した。5) 化学は鈴木梅太郎(ビタミンの発見者、文化勲章受章)、物理学は長岡半太郎(土星型原子モデルの提唱、文化勲章受章)、寺田寅彦(俳人、随筆家としても著名)、藤原咲平(お天気博士、甥は小説家の新田次郎/元気象庁測器課長の藤原寛人)、機械学は井口在屋(日本機械学会の創設者)、冷蔵学は加茂正雄(日本機械学会会長)、法律経済は三井米松(農商務官僚)などそうそうたるメンバーであった。

 蜷川は回想録のなかで、「当時、水産講習所には、物理学の寺田寅彦先生、お天気博士の藤原咲平先生、海藻学の岡村金太郎先生ら偉い先生がいたんです」6)と書いている。おそらく直接指導を受けた先生の名前を挙げたと思われるが、直接教わっていなかったものの上述したように著名な学者が教壇に立っていた。岡村からは、直接、海藻学を習っていたと思われ、寺田には助手時代の海洋基本調査で世話になっているはずである。藤原咲平に関しては後述するように直接面識があったかどうか疑わしいが、寺田寅彦の高弟であった宇田道隆は当時の様子を次のように書いているので、接触している可能性が高い。

 「当時東大助教授(物理)だった寺田寅彦先生にその年(明治44年)から水産講習所海洋学研究嘱託のほかに物理学講義実験を委嘱した。寺田先生を助けて物理の講師になったのは高弟の藤原咲平博士(後の中央気象台長「お天気博士」)である。毎週木曜日に深川の水産講習所に通い、藤原先生が先に講義と学生実験を指導し、寺田先生が試験部所員を研究指導して、ここに水産物理学という新領域の開拓が始まった。」7)

 ただ藤原咲平についてはよくわからないことがある。蜷川が水産講習所に在籍したのは1914(大正3)年9月から1920(大正9)年8月までであるが、東京水産大学70年史に記載された職員名簿によると、藤原咲平の在任期間は明治44年~大正元年となっており、蜷川の在籍期間と重ならない。蜷川の在籍期間中に気象学を教えていたのは第4代中央気象台長を務めた岡田武松であった。考えられるのは、①70年史の記載の間違い、②蜷川の記憶違い、③嘱託はやめていたが寺田寅彦を通じて海洋基本調査の時に世話になっていた、の何れかであろう。

この藤原咲平について、評論家の草柳大蔵は、「藤原咲平は“お天気博士”で知られていたが、気象台から『藤原先生を水産にやるのは絹のハンカチで廊下を拭くようなものだぞ』と勿体をつけられるほどの学識があった」と書いている。8) ところがこの話は眉唾である。山村によれば、事実は、藤原咲平が水産学会懇親会での談話で、「寺田先生を水講に紹介された東大の長岡半太郎博士が『寺田君に、水講の生徒に物理を教えさせるのは、絹のハンケチで洟を擤むようなものだ』と云われた」というのが真相らしい。9)