第1回 十五年戦争と日本の医療界
―人間の尊厳と人権を基本にした医学・医療の発展のために
吉中 丈志

プロフィール

1952年山口県生まれ。1978年京都大学医学部卒業。
2002年京都民医連中央病院院長。2017年公益社団法人理事長。
京都大学医学部臨床教授。全国保険医団体連合会理事。京都府保険医協会理事。
NPO化学兵器被害者支援日中未来平和基金 副理事長。15年戦争と日本の医学医療研究会副幹事長。「戦争と医の倫理」の検証を進める会世話人。医の倫理-過去・現在・未来-企画実行委員会副代表

 日本の医学生のほとんどが手に取ることになる教科書がハリソン内科学書です。これに次のような記載があります。「第二次世界大戦中、日本軍の悪名高い731部隊は満州を含む中国各地にペスト菌に感染したノミを何度も散布したとされており、このことは当該地域でアウトブレイクしたペストと関連付けられている」。この国際的に有名な教科書に、731部隊が細菌兵器を開発して細菌戦を行ったことが紹介されているのです。

 中国東北部黒竜江省のハルピンにある731部隊罪障陳列館には同部隊が行った非人道的な実験や毒ガス戦、細菌戦の資料が展示されています。私たちが支援している遺棄毒ガス兵器被害者の人たちは、戦後の開発工事で掘り起こされた毒ガス弾から漏れ出た毒ガス液に暴露して死亡者や深刻な障害を出し今も被害に苦しんでいます。十五年戦争時の加害の歴史は終わっているのではなく現在につながっているのです。

そこで歴史の刻印はどのように刻まれているのかについてもう少し掘り下げて考えてみましょう。

日本の医学界が十五年戦争時代に犯した加害の史実

 十五年戦争とは、1931年の柳条湖事件勃発から1945年の降伏までの間に、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争といった日本が引き起こした対外戦争全体をさしています。

 この戦争に日本の医学界は協力し戦争遂行のための研究を行いました。細菌、毒ガス兵器(BC兵器)の開発や非人道的な人体実験を行ったことが知られています。731部隊はこうした加害行為を行った代表的な組織です。部隊長の石井四郎はよく知られています。

石井四郎 最後の軍服姿 1946年撮影

 京都帝国大学医学部を卒業後陸軍軍医学校へ進み、陸軍から京都帝国大学大学院へ送られました。目的は「細菌学、血清学、予防医学、病理のための研究」でした。生物化学兵器はジュネーブ条約で禁止されているため、逆に日本で秘密裏に開発製造すれば欧米に対して優位に立つと陸軍に進言したのでした。当時、京大総長は荒木寅三郎でした。開明的な思想は医学生のあいだに絶大な尊敬と信頼を集めたといいます。石井は荒木総長の娘、清子と結婚しています。石井は陸軍防疫給水部で濾水機の開発を行いましたが、一方で1936年にハルピンの平房に「内地でできないことを行うため」一大施設を建設します。目的は細菌兵器などの軍事研究でした。

第11回医学会総会 東京大学安田講堂前 石井四郎は最前列

 京都や東京帝国大学など全国の医学部から若い研究者が軍属の技師として派遣されました。当時の医学会総会を見ると日本の医学界を挙げて積極的に協力したことがわかります。BC兵器の開発や非人道的な人体実験を行い、陸軍軍医学校防疫研究室報告や日本病理学会などの雑誌に研究成果を報告しています。こうした研究によって学位を得た研究者も少なくありません。
 実験のために731部隊へ送られた人は「マルタ」と呼ばれ氏名が判明しているだけで3000名にのぼっています。焼却しそこなって残っていた憲兵隊の文書をもとにして中国の研究者が地道な調査を行って判明した数字です。ニュルンベルグで裁かれたナチスの医師による人体実験被害者1500人を上回る犠牲者の数だったことは意外と認識されていないのではないでしょうか。

「マルタ」として、731部隊に移送される
途中の八路軍兵士

戦後の隠蔽 はアメリカとの共謀

 終戦時、石井四郎は平房の撤退を前にして部隊員(最盛期には3000人を超えた)を集め「731部隊の秘密はどこまでも守り通してもらいたい」と指示しました。戦争犯罪の追及を逃れるためです。資材やデータ、濾水機などを爆撃機に積み込んで日本へ戻り、研究資料は金沢などに秘匿しました。日本を占領したGHQ(連合国総司令部)はアメリカが中心となって石井の尋問など度重なる調査を進めていました。ソビエト連邦(当時)はハバロフスク裁判で部隊員を被告として訴追していました。ところがアメリカはソ連へ軍事的に対抗するために、731部隊の研究資料の提供と引き換えに石井ら部隊員を免罪することにし、東京裁判では裁きませんでした。ニュルンベルグ医師裁判ではアメリカはナチスドイツの医学研究者の戦争犯罪を裁いており、明らかなダブルスタンダードでした。
 こうした経緯で戦後の日本医学会や日本医師会など医療界は過去を検証して反省し新たな決意を示すことがなかったのです。技師として平房へ送られた医師たちは戦後、大学や学会など医学界で要職に就き人脈が現在へとつながっています。

歴史の刻印① 日本の医の倫理の欠陥

 こうした経緯は日本の医の倫理にとって負の遺産になっています。日本の医の倫理の系譜を大雑把にドイツとアメリカのそれと比較してみたのが図です。日本の医の倫理は実験・研究倫理にしても医療倫理にしても輸入されたものと言わざるを得ません。自らの足で立っているとは言い難いのです。滋賀県医師会参与だった折田雄一氏は次のように指摘されています。「さてわが国の現況はどうであろうか。わが国でも日中戦争から1945 年の終戦まで人道に反する医療実験が行われていた。満州における731 石井部隊事件である。九州大学でも不幸な生体解剖事件があった。日本とドイツは1951 年に自国の医学犯罪を謝罪してWMAに加入を許された。ところが日本では国内の犯罪的な医学実験に対する認識・反省は米ソ対立の冷戦状況の中であったとは言え深まることがなかった。逆に赤ひげ先生が医師の鑑として称揚される時代が続いた」。(医の倫理の基礎知識 日本医師会 2018年版からはこの記述は無くなっています) 1947年設立の世界医師会は設立趣旨に「世界平和を計る」ことを掲げました。また、ナチス・ドイツの医師による戦争犯罪をくりかえさないためにジュネーブ宣言(1948年)を採択しました。そこでは「私は如何なる脅迫があろうとも、生命の始まりから人命を最大限に尊重する。人間性の法理(現在では人権と市民的自由と改定)に反して医学的知識を用いるようなことはしない」という決意が述べられ、「私は他からの拘束を受けず、自分自身の名誉にかけてこれらのことを厳粛に約束する」という医師の自律、プロフェッショナリズムが打ち出されています。
 日本医師会は1949年3月30日に開催された代議員会で「日本の医師を代表する日本医師会は、この機会に、戦時中に敵国人に対して加えられた残虐行為を公然と非難し、また断言され、そして時として生じたことが周知とされる患者の残虐行為を糾弾するものである」という決議を採択し世界医師会への加盟を果たしました。これは同年にドイツ医師会が提出した声明に比べると、事実の検証を欠き、主体者としての反省がなく、将来への決意表明がないものでした。ニュルンベルグ裁判もスルーしています。
 片やドイツ医師会が同年に提出した声明は世界医師会によって是認されました。日本医師会雑誌で紹介(1949年9月に提出し,1950年1月28目に修正)されたものを下記に示します。

 独乙医師團は或る独乙医師が個人的及び團体的に第三独乙國会当時に沢山の惨酷及び虐待行爲への参加及び被実験者の許可なくして人体に対する残忍な実験の計画及びその実行を認めねばならなかつたことを慣怒を以てせねばならなかつたし又遺憾に思つた。
 幾百万人の人類の死の結果をもたらしたこれらの行爲と実験を実行したため,独乙医学は医学の道德的傳統を犯し,医学の名誉の質的低下を来し,そして戰争及び政治的怨恨のために医学を賈春的に使用したことを我々は認める。有罪犯人は罰せられた。或者は連合國裁判により他の者は独乙裁判により罰せられた。
 独裁の制度がこれらの行爲を看破することを不可能にし,そして自由なる意見の凡ゆる表明を抑制したことを我々は遣憾に思う。それ故我々は独乙及び他の國で1933年来医師によつて犯された罪を嫌悪し琲斥する。
 この声明書を世界医師会に提出するに当り我々は将来独乙人医師が斯樣に医学を裏切ることを全力を以て防止することに努めることを医学及び全世界に対しておごそかに誓いする。それで我々は1947年10月18日に自発的に採用して,その後に発表した我々の決議文を繰返して書いて西独医師会によつて発行された。20人のSS医師,科学者及び3人の高級官吏についてのニュルンベルグ裁判に関する報告書及び此の出版物に於ける我々の立場について述べる。独乙医学團体は医学の職業的義務に対して罪を犯した医師を職業的裁判権を以て全力で罰する。将来高い水準の職業的行動を約束する意志のない医師に対しても同様に我々は対処する。
 従つて1952年度の独乙医師会議ではその職業的規則を変更するに当り,1948年に「ジエネーバ」で世界医師会が採用した「ジエネーバ宣言」(ジュネーブ宣言)を予約購読することを各医師に要求した。

 ニュルンベルグ裁判では、盲目的に法律や国策に従っては人権を守れないと反省され、上記のジュネーブ宣言が世界の医師に共通した倫理となりました。国(権力)の命令であっても人権を侵してはならない、そのために医師ならびに医療界の自律が不可欠であり、そのプロフェッショナル・オートノミーを支えるために医があるという考え方です。
 世界医師会加盟を果たした日本医師会は「医師の倫理」(1952年)を定めましたが、驚くことにこの中では、医師は「常に人命の尊重を念願」するが「常に正しい医事国策に協力すべき」と表明しました。他(国家も含む)からの拘束を拒否し、平和への希求、人権や市民的自由を守るという観点が欠如しているのです。もちろん戦争政策への荷担への反省や自律した再出発の決意はありません。
 こうした経緯によって日本の医の倫理には個人の尊厳の擁護や自らの過ちを正す姿勢に弱点を持つことになりました。

歴史の刻印② 遺棄毒ガス兵器被害

 毒ガス兵器は広島の大久野島で製造されました。731部隊では毒ガス兵器の開発実験を行っています。1940 年 9月に牡丹江北方地区でイペリットガスの効果を測る人体実験が実施されたことがわかっています。16名の被験者を配置した3地域に対してイペリット弾約1万発を発射して人体への影響を詳細に観察・記録していた記録が残っています。
 こうして開発した毒ガスは中国で広範囲に使われ甚大な被害をもたらしました。戦場で使っただけではありません。村の住民を集めて学校の教室に閉じ込めガスを投入したという生存者の証言もあります。また、東南アジアの国々でも使用した事実もあります。

遺棄毒ガス問題ポータルサイトより

 毒ガス兵器の使用は国際法違反でした。このため終戦後大量の毒ガスを地中に埋めるなどして中国に遺棄しました。その数は中国全土で 70 万〜200 万発と言われています。これが遺棄毒ガス兵器です。これによって被害を被った人は2000人以上であると言われています。
 ところが被害はこれで終わりにならなかったのです。2003 年 8 月 にチチハル市(黒竜江省)の地下駐車場建設現場から 5 個のドラム缶が掘り出されました。液体の毒ガスが入っており漏れ出して周りの土を汚染しました。しかし、誰も毒ガスとは知らなかったため汚染された土を媒介に被害が拡大し判明しているだけで44 名が被害を受けました。うち 1 名は事件発生 17 日後に死亡、その後肝臓がんや脳血管障害で 2 名が死亡しています。私たちはNPO化学兵器被害者支援日中未来平和基金と協力して検診活動に取り組み医療支援を継続しています。

過去と現在の中にはまだ顕在化していない新しい可能性が実現される未来のために

 加害の史実は重いものです。被害者が忘れることはないことに思いを致すとなおさら向き合うのがつらくなります。しかし、日本の医師、医学者、医療者は決して忘れてはいけないと考えます。こうした加害の歴史に真摯に向き合っていく必要があります。そうすることによって医療の未来を東アジアから世界へと発信していく可能性が広がるのではないでしょうか。