【浜通りを訪ねて ③富岡町】
調査最終日の10日は、朝から「とみおかアーカイブ・ミュージアム」を訪問し、お昼前の特急「ひたち」で東京に戻ることにしました。この便を逃すと、17時40分過ぎまで特急はないので、念のために歩いてすぐの富岡駅に行き、切符を購入しました。実は、前日の20時半頃に、夕食を終えてから買いに行ったところ、自販機は営業停止になっていました。無人ですが、センターとのやりとりが生じる可能性があるためか、朝8時から夜8時までの「営業」となっているようでした。無事、切符を購入して、9時の開館前に、ミュージアムに向かいました。
「とみおかアーカイブ・ミュージアム」は、駅から少し離れた公共施設が集まる高台にありました。2021年7月にオープンしたばかりの真新しい施設です。東北大の川内さんの友人でもある、主任学芸員の門馬健さんに展示コーナーを懇切丁寧な解説つきでご案内していただいた後、じっくりお話をうかがいました。
実は、門馬さんは、いわき市の出身で、東北大大学院で歴史を研究したあと、福島にある新聞社に就職し、そこで震災を体験した人です。取材をしながら、宮城史料ネットで史料保存のボランティアをするなかで、外部では壁が厚い史料調査とまちの復興を一緒にしてみたいと思い、富岡町の職員採用試験を受験し、合格したとのこと。入職当時、前町長に、「やりたいことをやってみたらいい」と聞かれ、「町史編纂事業をやりたい」と答えたそうです。
いまだ帰還ができない地区もあるなかで、町職員として、2014年6月に富岡町歴史・文化等保存プロジェクトチームを立ち上げ、有志職員で町内での調査を開始します。もちろん、資料整理等や震災遺構の調査では、福島大学や東北大学との連携も図りました。
2015年に策定された第二次復興計画には、拠点整備事業としてアーカイブ施設の整備が明記されます。その前に、全国各地に避難されていた町民のみなさんと100時間以上の議論もしたそうです。16年には富岡町震災遺産保全宣言を行い、避難先での企画展も開催していきます。同年7月には、富岡町アーカイブ施設設置検討町民会議を設置し、職員だけでなく町民を含む形で具体化を開始しました。
そして、17年4月に、帰還困難地域を除いて避難地域が解除されたことと併せて、富岡町震災遺産保全等に関する条例が施行されます。これで制度設計ができたことにより、この年のうちにアーカイブの基本構想が策定され、19年11月に建築着工し、昨年夏開館となりました。門馬さんは、このようなアーカイブの建物だけでなく、収蔵物の調査、分類、展示方法、解説にいたるまで、すべてに直接関わった人で、それだけに展示解説には熱い気持ちが込められていました。
実は、展示コーナーの入り口で嬉しい出会いがありました。2015年の福島市内のフォーラムで、当時双葉町教育委員会で働いておられ、避難先での復興の取組に地域の歴史的文書を活用した報告をされていた吉野高光さんが、とみおかのミュージアムで学芸員として働き、とくに自然分野を担当しているということで、再会を喜び合いました。また、展示見学中に、人間文化研究機構国文学研究資料館の西村慎太郎さんたちとも出遭い、ご挨拶しました。西村さんは、門馬さんたちと協力しながら、被災して人々が帰還できていない大字の歴史を作成する仕事をしており、同ミュージアムで販売している『小良ヶ浜』という大字誌を購入したばかりでした。なんとも奇遇な出遭いでした。
展示コーナーの入り口には、富岡町の高度成長期の中央商店街がミニチュア模型で再現されていました。残っていた写真をもとに、学芸員の皆さんが調査をもとに設計し、業者に造っていただいたそうです。町外に出た避難者、元住民のみなさんの多くがここで立ち止まって、昔のことを語りだす姿がしょっちゅう見られるそうです。表通りのお店の裏側では、相撲を取っている少年たちの姿も。なかなかの展示です。
展示は、基本的に撮影しても構わないということで、たくさんの写真を撮らせてもらいましたが、ここでは省力します。岩石や自然資源、写真、文書類は、すべて町民の協力によって発見、再現されたり、門馬さんがオークションで入手したり、吉野さんが自分で採取したものであり、史資料一点一点に思いが詰まっています。
歴史的にみると、この富岡は行政・政治機能が集中したところで、近代の郡役所もあったところだそうです。また、通婚圏として、阿武隈山地側の川内村との交流が歴史的に盛んで、それが原発事故の際の避難ルートともなったと解説してもらいました。また、浜通り側では、崖に穴をあけて、製塩業につかっており、できた塩を内陸部に運ぶ塩の道もあったそうです。ここにも、古代中世、近世から現代にいたる地域の歴史の固有性があります。
近代に入っての産業の発展も、農業、漁業も含めてわかりやすく展示され、原発立地前の富岡の原風景が夜ノ森駅周辺の状況も含めてわかるようになっています。福島第一原発事故関係の展示は、時間経過とともに模様替えすることを前提に展示されていますが、津波災害当時、原発事故前後、そして一時避難から長期避難にかけての様子が、住民の視点も含めてよくわかるように展示されています。
常設展のコーナーの横には企画展コーナーがあり、富岡町の小中学校の展示物がありました。いずれも、今は統廃合で廃校になった学校ですが、たくさんの思い出が書き込まれていました。
このアーカイブズ・ミュージアムのもう一つすごい点に、史資料の受け入れ作業から展示企画の流れを、2階の廊下からすべて見ることができる仕組みになっていることです。資料収集の視点もはっきりしていて、いわゆる著名な文化財的なものよりも、ふつうの暮らしのなかで町民がかつて使っていたもの、家に残していたものを大事にしていることです。
そして、2階の階段のところにはカラーの「アーカイバルボックス」が多数並んでいます。見学しての感想やアンケート、ワークショップでの作品やコメント類もすべて残しているそうです。ここまで、町民や入館者と一体となったアーカイブづくりにこだわったところは、無いように思います。
門馬さんや西村さんが取り組んでいる、消滅の危険のある大字の歴史を掘り起こす仕事もとても意義あるものです。大字誌である『小良ヶ浜』の編纂の意義は、行政区長の以下の「はしがき」からはっきりと理解することができます。
小良ケ浜行政区が今回、今までの歴史の本を作るということになったとき、私が一番頭に置いたのは、東京電力の問題で小良ケ浜行政区が自然消滅するんじゃないかということです。今回の東京電力の事故で小良ケ浜の歴史がぷつんと尻切れトンボになるのは一番寂しい。ぜひとも昔からの小良ケ浜行政区の歴史を知っている地元の皆さんに協力願って残したいと思いました。
やはり先祖が小良ケ浜で歩んできた道ですから、それを子供たちや孫たちに「小良ケ浜行政区というものはこれだけのものがあったんだ」とつないでいくために半永久的に本として残したい。本がある限りは、小良ケ浜の歴史が分かりますから。
大規模災害によって生活の場としての地域を失うことの寂しさ、悔しさは想像を絶するものがあります。そのような喪失感のなかで、先祖から引き継いできた「歴史的空間としての連続性」をいかに学び、そして自らの生活の再建と地域の再生につないでいくかが、大規模被災地特有の問題として浮かび上がったといえます。これは、消滅するかもしれない被災地のコミュニティだけでなく、全国どこでも当てはまるように思います。歴史に学び、歴史を指針に、地域を再生、創りなおす活動の重要性は、普遍性をもっていると確信した次第です。
ぜひ、多くの皆さんに見ていただきたいミュージアムでした。門馬さんは、町の職員でもあり、今後どの部署に異動するのかわかりません。しかし、これまで、職員チームで培ってきた歴史の記憶を記録とし、それを震災からの復興の力にしていく取組は、先ほどの大字誌の編纂事業に他の部署で働いている職員も進んで参加していることを見ると、着実に根付いているように思います。今後の取組みに、引き続き、注目していきたいと思いました。
わずか3日間の調査旅行でしたが、三陸海岸の津波被災地と比較して、福島第一原発事故の影響の広さと深さを肌で感じることができました。しかも、その浜通りの中でも、帰還困難地域が残る地域と途中解除地域、未指定地域では大きく事情が異なることを胸に刻みました。岸田首相は、このような実態を知ったうえで、原発再稼働に加え、原発の新設を考えているのでしょうか。そんな思いを強くした調査旅行でした。
<完>