インタビュー
旧満州 葫蘆島からの引揚げ
妹と母の死を繰り返してはならない

村上 敏明さん

村上敏明 89歳
 ・1934年 京都府亀岡町(現亀岡市)生まれ
 ・1938年 満州に一家で移住
 ・1946年 弟二人と中国葫蘆島から引揚げ船で佐世保港に帰る
 ・1951年 京都市教育委員会職員
 ・1995年 京都市教育委員会退職
 ・2012年 キンカン行動を開始し現在までほぼ毎回参加

インタビューアー  編集部 池田豊

戦争を生き抜き、戦後78年間の日本の社会を築いてきた人たちに、その記憶をたどり今に伝える思いを語ってもらいました。

 ― 京都市役所時代には労働組合の活動や職場の民主化の取り組みなどで大変お世話になりました。今日は、村上さんの戦時から戦後にかけての歩みと、戦争が暮らしと生き方に何をもたらしたのかについてのお話を聞かせていただけますか。
 4歳の時に家族で満州に渡ったとのことですが?

村上 私は1934年(昭和9年)に亀岡町、今の亀岡市に生まれました。父は京都市の現場の職員として働いていました。日本が1931年に満州事変を起こし翌年に満州国を作った時代でした。 
 父親は「満州に行けば給料が倍になる」との話にのって、日中戦争がはじまった翌年の1938年に中国の大連にわたりました。その後、満州国の首都であった新京(現在の吉林省長春市)まで行って、私が2年生の時に四平省の四平街(現在の吉林省四平市)に転校しました。
 四平街の西側には日本人街があり、東側には中国人街がありました。当時は2万5千人ほどの人口だったようです。四平には小学校が一つあり、私はその四平在満国民学校に入学しました。

満洲帝国分省地図並地名総攬より

 ― 満州での暮らしはどのようなものでしたか?

村上 冬は運動場に氷を張ってあまり上手ではなかったけれど担任の先生の励ましを受けながらスケートをしたりしました。先生とは別に配属将校がいてとても軍国主義的で暴力的な人物のもとで、近くの公園で兵隊ごっこをしていたのを覚えています。
 体罰は日常のことで最後までよく立たされました。級長や副級長は校長や軍隊の将校の息子たちでした。私や友人も軍国少年になってましたね。友人と中国人の子どもたちに石をぶつけて女の子にけがをさせたこともありました。その集落の人たちが私の家に抗議に来たのですが、対応した母は謝るということはしませんでした。日本人は傲慢だったのですね。
 白金を回収するためにポスターを書かされたのですが、私の書いたものが市内の銀行に掲示されたこともありました。
 友人の小林君は頭がよく、戦後数十年ぶりにあったときに「お前も賢くて成績もよかったぞ」と言ってくれました。当時の通知簿は10段階評価でほとんどが10だったのを覚えています。母が成績がよくて戦後日本に帰って祖母に亡くなった母の通信簿を見せてもらうとえらく成績が良くて。頭は父に似ずに母に似たのでしょうね。

前から2列目 右から4人目 筆者

 ― 西の方には小さな飛行場と軍隊があったのですが、そこまで見渡せることができ、地平線がくっきりと浮かびます。満州の夕日は赤くて綺麗だと言われますが、その通りでしたね。でもみどりは殆どありませんでした。

村上 父は現地の国際運輸という会社に勤めていて四平支店ができたので新京から四平街へと異動になりました。満鉄の輸送部門の子会社で国策会社だったようです。父はだんだんと酒に浸ることが多くなり、母に暴力をふるうことも幾度となくあり反発を覚えました。

国際運輸:1923(大正12)年に「満鐵の補助機關として運送竝之に關聯する各般の綜合的經營に依り東亞大陸の資源開發を誘導し國際交易の興隆を助長する使命の下に設立」(『國際運輸株式會社二十年史』)。南満洲鉄道会社の関係会社として,海陸運送や運送取扱営業,倉庫営金の供給などに関する一切の業務を担っていました。業,代弁並びに保証行為,労力金の供給などに関する一切の業務を担っていました。

■ソ連の対日参戦と引揚げ

 ― 1945年8月9日ソ連が対日参戦し、8月15日には敗戦を迎えるなかで、あらゆるものが大きな変化を強いられたのではないでしょうか?

村上 1945年5月になると関東軍の精鋭たちは沖縄やフィリピンなどの南部戦線に向かって南へと移動を始めました。私の家がちょうど鉄道の沿線に在って、兵隊が南に向かって行くのをよく見ていました。その穴埋めに満州にいた父を含めた働き盛りの男性たちはソ連軍の侵攻に備えるために根こそぎ徴兵、動員され北の戦線に向けて移送されてことになりました。残されたのは母と私、2人の弟、赤ちゃんの妹の5人になってしまいました。

 ― 残された村上さんたちはどうされたのですか

村上 ソ連が参戦した8月9日の翌日から私は空襲に備えて北の空を監視する任務に就きました。当時10歳でした。今でも印象に残っているのは、空気がとても澄んでいて、きれいな濃紺の空に星がキラキラと輝いている満州の夜空です。星が飛行機に見えることもありました。
飛行機を発見したら大声で知らせるんです。

 ― 8月15日に日本は敗戦を迎えましたが、翌1946年6月から国共内戦が始まります。蒋介石率いる国民党軍と中国共産党の八路軍(1947年より中国人民解放軍)による激しい戦いが満州をはじめ全国で繰り広げられました。満州四平街に残された村上さんをはじめ多くの日本人はどうしていましたか。

村上 四平は内戦にさらされて、連日大砲や迫撃砲、機関銃がどんどん撃ち込まれました。中国共産党の八路軍が四平に入ってきたときに、国民党軍の兵隊が馬で逃げだし、2,3百人の八路軍が一斉射撃をして馬から兵隊が落ちるのを家の窓から見ていたのを覚えています。昼遊んでいた時に近くで大砲がさく裂して近所の叔母さんが顔にけがをしたのを間近かに見たことも記憶に残っています。砲撃で家の窓が割れて、破片が炊き立てのごはんに入って、食べられなくなったこともありました。そういう中で生き残った私は運が良かったと思います。

 ― 四平からの避難、退去はいつ始まったのでしょうか。

村上 私は当時12歳でした。母と7歳、4歳の二人の弟、1歳の妹の5人の家族で日本に帰ろうとしました。四平を出発する前日の8月7日に、25000人の日本人会のリーダーだったと思うのですが、5,6人の男性が家にやってきて、妹に飲ませるようにと水薬を渡されました。言われるがままに母の腕に抱かれた妹に私がスプーンで薬を飲ませました。ほどなく妹は息を引き取りました。

 ― なぜ日本人同士がそのようなことを

村上 満州から日本への帰還の長旅に耐えられない子ともやお年寄り、病弱な者は「足手まとい」になるとして、殺すことになったのでしょう。

 36年後に東京で四平小学校の同窓会が開催されました。親友の小林君に再会し話したときに、私の「消え去った記憶」が呼び起こされました。当時の事がはっきりとよみがえってきました。小林君の家に走っていき、泣きながら私が妹に薬を飲ませ死なせてしまったことを話したそうです。彼は子どもながら正義感、義侠心が強く、怒ってすぐに抗議に行こうと言いましたが、私の母がやめるように諭しました。私はなぜか激しく怒り奮い立つようなことはなく、うろたえ、おとなしくしていました。
 あわただしく小さな亡きがらを自宅近くに土葬したのを覚えています。

葫蘆島(ころとう)

 葫蘆島には国民政府の機関である日僑府監理所があり、満洲において在留日本人会を改組した日僑善後連絡所(処)を指揮監督して日本人の遣送・引揚業務を行っていました。満洲の港は大連がソ連軍に、営口が中共軍によって押さえられており、葫蘆島は国民党軍が制圧していた唯一の港であったため、満洲からの引揚げは葫蘆島経由で開始されました。
 1946年5月7日から開始され、同年末までに101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還しました。
 作家の澤地久枝さん、漫画家の赤塚不二夫さん、俳優の森繁久彌さんなども同時期に葫蘆島から引揚げました。

 ― 翌日には四平を出発して引揚げ船が出る葫蘆島(ころとう)に向かったわけですね。

村上 私たち家族は、多くの残留日本人と一緒にすし詰め状態の貨物列車に乗り葫蘆島に向かいました。母は1歳の子を亡くしたこともあり、四平を出たときからまともに座ることもできず荷車で横になって運ばれて、うわ言のように「芙美子(ふみこ)、芙美子」と何度も亡くなった妹の名前を呼んでいたことを覚えています。
 葫蘆島に着くと衰弱しきった母は入院しました。病院の畳の部屋で、医者からいつもとは違う紙包の粉薬を渡されました。私がそれを母に飲ませるとすぐに口から泡を吹き、苦しみながら目の前で亡くなりました。
 当時死因は「結核性肋膜炎」とされましたが、戦後青酸カリを飲むと少量でも似た症状でなくなると聞きました。妹につづき母親まで私が‥と心の奥底に澱となって沈殿し、誰にも話すことなく戦後を生きてきました。

 ― 母と妹を亡くした後の葫蘆島から日本までの記憶は?

村上 葫蘆島を出て、3,4日で佐世保港に着くのですが、すぐには上陸できず、一ヶ月以上がたった9月10日に高砂丸から2000人の人が上陸しました。このことは私が定年退職後長崎県の図書館で当時の新聞を調べて分かったことです。その間の約一ヶ月の船旅の記憶はほとんどありません。唯一残っているのは船内で弟が行方不明になって別の甲板で発見されたことぐらいです。

 ― こども3人でどのようにして亀岡にたどり着いたのでしょうか

村上 敗戦になる前の年、昭和19年の夏休みに母と一緒に亀岡町の祖母の家で過ごしました。その記憶があったため引揚げの時にはそこに帰るんだ、そこしか帰るところはないんだと思いました。19年の夏休みの経験がなければ行くところがなかったと思います。
 私と二人の弟は汽車に乗って京都駅に着き、京都府の援護局の人に亀岡まで送ってもらい、なんとか母親の実家にたどり着くことができました。帰国後、弱っていた7歳の弟もすぐに亡くなりました。満州に渡り10年後に日本に戻った時には、結局6人の家族は11歳の私と4歳の弟の二人っきりになっていました。

1945年11月「地方引揚援護局官制」を公布し、上陸港に地方引揚援護局を設置。当初は浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島の7局と横浜(浦賀)・仙崎(鹿児島)・門司(博多)の3出張所を設置。1948年5月には佐世保、舞鶴、函館の3か所となりました。

 ― 父親はソ連との戦線に送られたとのことでしたが、ソ連参戦から数日で日本は敗戦を迎えましたが、その後無事に帰られ再会はできたのでしょうか?

村上 徴兵されていた父はシベリアに抑留され、1948年の1学期にひょっこりと帰ってきました。シベリアでの経験や影響もあり当時の共産党から立候補して町会議員になったりしていましたが、共産党の混乱した時期だったことや私生活のこともあり、父親に対しては色々とわだかまりもあり、打ち解けることはありませんでした。

 ― 村上さんとは京都市役所時代にご一緒させていただきましたが、公務員としての仕事などについてお聞かせください。

村上 亀岡で小学校、中学校を卒業し1951年京都市教育委員会で仕事をするようになりました。在職中に定時制高校に通い、その後も一生懸命勉強して立命館大学二部を卒業しました。
 社会教育会館時代には組合活動を通して学んだ「全体の奉仕者」の立場で仕事に励みました。子どもの読書運動に熱心に取り組み成果を上げることができました。その後の図書館での仕事の原点ともいます。私の住んでいる団地でも妻と一緒に子ども図書館運動をしたりしました。
 1995年向島図書館長を最後に京都市役所を定年退職しました。退職後、京都府の方から声がかかり大阪府島本町図書館設立準備のため島本町に採用され、その後館長を務め2005年現職を退きました。

 ― 京都市、島本町での公務員としての仕事を終えてから、コンサートホールでお会いすることもありましたが、ここ10年程はSNSや原発反対運動の場でご活躍ですね。
 福島第一原発事故のあと京都駅前の関西電力での原発反対運動やSNSでよく村上さんの姿を拝見するようになりました。11年も続いているキンカン行動(金曜日関西電力前行動)を始められたのはどのようなきっかけだったのでしょうか。

村上 原発問題に以前から取り組んでいたわけではなかったのですが、原発事故のあと私が住んでいる伏見の戦争展の時に、福島から避難された人が伏見に住んでおられて、その人たちと繋がりができました。話を聞く中で関心が強まり、一緒に関西電力前に抗議に行こうと誘われて参加するようになりました。ちょうど京都市長選挙がたたかわれていて、伏見の大手筋で候補者の中村和雄弁護士の応援宣伝をしているときに、避難されている女性が私も応援しますよと言ってお手伝いしていただいたこともありました。

 2012年6月29日が最初の関西電力前での原発反対のキンカン行動でした。
最初数人の女性が集まっていましたが、そこに私たちも加わり大きな集まりとなり関西電力への抗議行動となりました。この取り組みが一気に広がり、現在では568回を数えるほど続いていて、皆勤ではありませんがほとんど参加しています。

 ― 日本は再び戦争する国への道を進め、原発推進へと大きく舵を切りました。戦争による辛く悲惨な経験と原発事故による体験は通じるものがありますね。

伊藤詩織さんの取材をうけ、ドキュメンタリーになりました。
https://creators.yahoo.co.jp/itoshiori/0200040539

村上 「家族がバラバラになり、生活が奪われている」、こういった実体験と突然の原発事故による避難者の状況も同じように感じました。キンカン行動は10年以上続いていますが、若い人の参加が少なく関心が弱いのがとても気になります。原発の恐ろしさや危険性を考えると、自分たちの未来や、子の世代に原発を残さないんだという思いが希薄になってきているのがとても恐ろしく残念に思います。戦争体験とおなじように、辛いことではありますがしっかりと語り継いでいくことが必要だと思います。

 私は退職してから佐世保を2回、中国も2回訪れました。佐世保では少しでも自分自身の足取りを確かめたいとの思いから、図書館で当時の新聞を調べて日本に着いた日がわかりました。
葫蘆島では母を含め多くの人を埋葬した土饅頭が数多く並んでいたのですが、今はきれいに整地され105万の日本人を送り返したという記念碑が建ってるだけでした

1946年~48年までに約105万人の引揚げがあった
遼寧省葫蘆島市の港にある記念碑

 ― 村上さんは亀岡のお寺のはなれで生まれ、愛宕山や牛松山の緑を見ながら育ったそうです。満州の荒涼とした地平線まで見渡せる風景とは異なり、辛い思い出もあるが亀岡の穏やかで緑と自然にかこまれた故郷の景色には今でも心が癒されると言ってました