インタビュー
1933-2013
[1]木曽大桑村 定勝寺から
[2]京の「寒に咲く白梅」に

有吉 節子さん

前編:1933-1951/木曽大桑村 定勝寺から

 戦後78年。戦争の経験と教訓を振り払うかのように、戦後最大規模の軍事予算を組み、核抑止論の名のもとに核軍拡政治を推し進める日本。

 戦争と戦後を語り継ぐ自伝的メッセージの第4回は、7期28年間わたって日本共産党市会議員として活躍され、90歳の今なお、詩吟、写生などで活動されている有吉節子さんに、お話を伺いました。

インタビュアーは岡田知弘さん(京都大学名誉教授)です。

有吉 節子

1933年 長野県大桑村に生まれる
1951年 京都女子短期大学入学
1975年 日本共産党京都市会議員(左京区選出)当選
2003年 日本共産党市会議員引退

■自由奔放な少女時代

 ― お生まれは信州と伺いましたが、どちらの地域でしょうか

有吉 私は昭和8年、1933年5月5日に木曽谷にある大桑村の須原という所で生まれました。南北に流れる木曽川に沿って集落があり、旧中山道の須原宿、野尻宿がある自然に囲まれたいいところですよ。木曽は畑は少ないけれど斜面に桑畑があって養蚕がさかんだったので、この地域を大桑村と呼ばれました。

 ― 両親のお仕事は?

有吉 父は文恭という名で、定勝寺というお寺の住職をしていました。当時全国に4000ヶ寺の末寺がある妙心寺派の高等布教師をしていました。

 ― 定勝寺は14世紀後半に開創された臨済宗妙心寺派のお寺で、現在は重要文化財になっている有名な古刹ですね。

臨済宗妙心寺派 定勝寺 
左 松葉文弘氏 右 父 文恭 

有吉 定勝寺は禅寺なので500年ほど妻帯を許されていませんでした。その後妻帯を許されるようになって父は三代目の住職にあたります。私が生まれまして家族はもとより檀家さんたちもようやく跡継ぎの子が生まれたと大変喜ばれたそうです。 
 お寺には私と同じ年頃の3,4人の御小僧さんたちがいて、一緒にお寺で育ってきました。父の影響と御小僧さんたちと一緒に育ってきたこともあって、私は誰とでも分け隔てなく接してきました。母は京都生まれ京都育ちで「たつえ」という名前でしたが、結婚したらお寺さんらしい名前にということで「いせ子」となりました。
 母方の祖父は京都生まれで、宮大工の三男で秋井繁之助といいます。茶室建築を志し、茶室大工として京都宮内省に勤務していましたが、その後ヴィクトリア女王の第3皇子であるコンノート殿下の茶室建築のためにイギリスに渡りました。この茶室は海外で初めての茶室として高く評価されたそうです。日本に戻って茶室建築事務所を開設する傍らで禅の研究もしていたそうです。

 ― 1931年の満州事変を契機に日本が侵略戦争へと突き進んでいく時代ですが、どのような子ども時代を過ごしましたか。

有吉 私は5月5日の正午に生まれました。ちょうどその時、山を越えた伊那谷のお寺の和尚さんがきていて、父が女の子が誕生したと話したところ、「わしのところに5歳の男の子がいるから、許嫁にしたらどうか」と言われたそうです。父は「今、生を受けた子の運命を我々が決めるのはよくないのでは」と返答したそうです。父のこの言葉は私の人生を最初に決めた言葉だと今でも思っています。 
 小学校時代は黒柳徹子さんのトットちゃんみたいな、おてんばで自由奔放な子でした。檀家さんから泊まり込みでばあやさんが来てくれて、私の面倒を見てくれていました。
 学校で子どもたちがブランコをしていると、ばあやが他の子どもたちに降りるように言って無理やり私に代わらせたりするので、そんな特別扱いが嫌だった思い出があります。

■戦争と教育、勤労奉仕、縁故疎開の友人

 ― 戦争の足音をどのように有吉さんは感じ取りましたか

有吉 私が小学校に入学したときは尋常小学校でしたが、3年生になるときに国民学校に変わりました。それまでは「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」となっていた教科書が「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」に重点が移っていきました。
 2年生の12月8日、雪がみぞれに変わってじゅくじゅくにぬかるんだ校庭にみんな集められて、ラジオ放送を聞かされました。ピー、ピーという雑音で何を言ってるのかよくわからなかったけれど、男の子らが「戦争だ、戦争が始まった!」と叫びました。3年生になるとお宮さんまで皆で手をつないでお参りに行きました。

 ― 戦争が始まって具体的な変化はありましたか

有吉 戦争がはじまると、科学的でないことが言われるようになりましたね。お宮さんに白いものが入っていったとか、教科書の修身で伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)が矛で海をくるりと混ぜて、矛先から滴り落ちたしずくで八島ができ、それが日本になった(古事記の国生み神話)と教えられたので、私は家に帰って、さっそくお風呂場で洗面器に水を張り塩を入れて、一生懸命に混ぜてみましたが島はできませんでした。親になぜできないのか聞いたのを覚えています。
 日本は神様の国だから必ず戦争には勝つと先生から教えられ、素直に信じていましたね。

 ― 戦争の影響はつらく悲しいことも呼び起こしたのではないでしょうか

有吉 4年生になると女性の先生が男性に代わりました。男子は一緒に遊んでくれるので大変喜んでいました。2学期になると先生に召集令状が来て、次の年の新緑の頃、戦死の知らせがきてクラス中大泣きとなりました。
 大桑村の須原には檀家が300軒ほどあって、成人男性の多くが戦死されました。
私は須原にある清水医院(現在は明治村に移設)で生まれたのですが、そこの先生は島崎藤村とも友人で東京の大学に行って産婦人科の医者になりました。この地域で医院ができてから出産で亡くなる人は非常に減りました。息子さんの若先生が結婚され、二人の女の子が生まれましたが、その後軍医として召集され、間もなく戦死の知らせがきました。残された奥さんが、母のところに来てよく泣いておられたことが思い出されます。

大桑村からの出征を送る住民と父(右端)

 ― 学校生活はどうでしたか

有吉 4年生になると勤労奉仕が始まりました。みんなで朝から鎌と鍬を持って芋を植えるために開墾した河川敷まで行くんですよ。学校の裏の道を通って木曽川の吊り橋を渡り河川敷まで行って畑の草むしりをしたり、さつま芋の苗を植えたりするんです。うちではちょっと小ぶりで軽い鍬を持たせてくれて助かりました。
 肥料は大変でしたよ。今みたいな水洗トイレではなく汲み取り式のトイレで、学校の肥溜めから桶に入れて棒を通して前と後ろから担いで吊り橋を渡って畑まで運ぶんです。でも桶の中身がちゃぽんちゃぽん揺れて撥ねが飛ぶし、臭いし、重いしで大変でした。
 鎌で手を切って骨が見えるほどのケガをしたこともあります。女の先生がヨモギ揉んで傷を押さえ先生のハンカチで強く縛って帰りました。家に着くと母が心配しとても悲しがったのを覚えています。4年以上になると山にある炭焼き小屋から、炭を子ども用の背負子に背負って軽便鉄道で降りてくることもしました。軽便鉄道の車両が谷底に落ちて、乗っていた男子が大ケガをしたこともありました。

今も残る鎌の傷跡

 ― 都市部から疎開してきた子どもさんもいたのでしょうか

有吉 大桑村には縁故疎開の子どもさんが来ていました。お父さんがトンボ鉛筆に勤めていたアッチャンがいました。疎開先の旅籠屋に遊びにいくと鉛筆が沢山あって、児童文学の本も多くありみんな集まって本を読んでいました。仲良しで河原で石に腰かけて「大きくなったら何になる?」とか話していました。

 ― 有吉さんは何に?

有吉 私は大きくなったらアメリカに行くと言いました。

 ― 戦争中に「鬼畜米英」と教えられていたアメリカへですか

有吉 父が禅宗の鈴木大拙さんの話をよくしてくれていました。父は鈴木大拙さんを頼って仏教をアメリカにも広めたい、アメリカに行くなら鈴木大拙さんに相談したらいいと話していたのがきっかけです。子どもの頭の中では闘っているアメリカと、夢の中のアメリカは違っていました。
 歳を重ねた今でも夢をみることが好き、外国に行くことが大好き、ちっとも一人でいることは寂しくないです。英語できないけどアメリカやロンドンの子どもの所に一人で行ってました。

*鈴木大拙(1870年~1966年)
石川県金沢市生れの高名な仏教学者。アメリカにわたり禅について多くの大学で講演をおこない、英語、日本語で重要とされる名著を書いた。禅の文化や仏教文化を世界に広めた第一人者である。

兵器製造のための金属確保のために公布された1941(昭和16)年9月に施行された金属類回収令により、定勝寺の梵鐘など金属類一式が供出されたことを報じる1942(昭和17)年の新聞記事。写真は有吉さんの父、文恭氏と僧侶、檀家、住民たち。

■終戦と新たな教育制度のもとでの暮らし

 ― やがて終戦を迎えるわけですが、その時の様子をお聞かせください

有吉 小学6年生の夏に終戦をむかえました。当日はちょうどお盆で大勢の檀家さんがお寺に集まって法要をするんですが、その時に役場から重大な放送があるからみんなで聞くようにと連絡があり、小さなラジオで初めて天皇の声を聞きました。雑音混じりの小さな音で最初は意味が分かりませんでしたが、やがて戦争に負けたとわかりました。
その時に頭に浮かんだのは、日本が中国などに行って沢山の人を殺してそれを英雄視してきたから、今度はアメリカ兵が来て殺されるかもしれない、どうしようと怖くなったのを覚えています。

 ― 終戦が6年生ということは、学校制度、教育制度が大きく変わる時ですね

有吉 昭和21年、1946年木曽高等女学校に入る準備をしました。クラスからは2名しか受験しませんでした。口頭試問があり、「今度新しい憲法ができましたね。その特徴は何ですか?」と聞かれました。私が「男女平等、婦人参政権です」と答えると、先生が「あなたは大きくなったら代議士になりますか?」と聞き、「ハイ」と答えました。これが私と憲法との初めての出会いでした。その後義務教育制度が変わり、木曽高等女学校併設中学校となり義務教育を終了しました。

<新制中学校の発足と移行について>
終戦時の教育制度は、初等教育である国民学校初等科に続く学校として中学校、高等女学校、各種実業学校を含む中等学校と、国民学校高等科および青年学校とが設けられた複雑な制度でした。
 1947年4月に六三制の小中義務教育制度へと変わり新制中学校が発足しました。同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、木曽高等女学校併設中学校となりました。以後学年進行によって1949年度に全学年の義務就学が完成しました。その間に1948年度からの新制高等学校の発足に伴い、木曽高等女学校木曽東高等学校となり、1983年木曽西高等学校と統合され木曽高等学校、2007年に木曽山林高等学校と統合し木曽青峰高等学校となっています。

後編:1952-2013/京の「寒に咲く白梅」に

■京都での大学生活と有吉孝雄氏との出会い

 ― 木曽を離れて京都に来ることになったきっかけは?

有吉 私は4年制大学に行きたかったのですが、母は女は裁縫ぐらいはできないといけないという考え方で、短大を出て早くお婿さんを探してお寺に戻らないとダメだと強く言ったので、京都女子短大被服科に入学しました。ところが、裁縫は本当に苦手で落第生でした。

 ― 京都でその後の生き方に大きな影響を与えることになる運命的な出会いがあったとのことですが。そもそもの出会いの経過などをお聞かせください

有吉 私は一回生の夏休みにお寺に帰った時、父から思わぬ話しがありました。檀家さんや村の人たちから就学前の子どもたちが集団生活になれるよう、夏休みの間お寺で簡易保育所を開設してほしいとの要請があり、私にその仕事をするようにと言うものでした。自信がなかったのですが、檀家や村の皆さんの協力が得られるとのことでしたので引き受けました。3人の指導員さんと一緒に40人以上の子どもさんをみていたんですよ。
 当時は今のような過疎地ではなく、各集落には木曽川沿いに水力発電所があり営林署、国鉄に働く人など若い労働者が住む木曽谷でした。

 ― 大学一回生が保育の先生をするのは大変苦労もあったんではないですか?

有吉 京都女子大学は浄土真宗で、私は宗教教育部というクラブに入っていました。お寺の日曜学校の先生をする活動を龍谷大学の学生と合同でやっていました。桂にある安楽寺まで毎日曜日に行ってたんですよ。そこで子どもたちと遊ぶことや、法話を子どもたちにわかるようにすることを龍谷大学の仲間から丁寧に教えてもらい、この経験があったので実家でもやってみようと思ったんですね。

 ― ここから運命的な出会いへとつながるんですね。

有吉 その時に京都大学経済学部の島恭彦先生と山岡亮一先生のゼミ生の皆さんが、国有林問題で大桑村の農村調査に来ていたのです。お茶を飲みに庫裡にいくと父から京大の皆さんが調査に来ていると紹介されました。お寺には庭があって、そこで有吉孝雄さんが「一枚写真を撮りませんか」と声をかけてきたのが運命的出会いでした。
 その後は恋愛物語の世界で、どこに写真を送りましょうかとなりました。京都に戻ってから寮に電話をかけてきたりして頻繁に会うようになり、本の貸し借りや話をしました。
 そのうち結婚の話も考えるようになったのですが、とても悩んだのは500年を超えてようやくできた後継ぎの子が寺を出るとなると、檀家の期待も大きかったので、それを裏切ることになるのではないかということでした。

孝雄氏と出会うきっかけとなった「木曽谷-大桑村と国有林」京都大学経済学部国有林調査班の報告書と名簿
1954年1月23日 京都市左京区吉田
京都大学経済学部内
  岡村孝雄、河本正、北原綴、斉藤博、島恭彦、土肥秀一、内藤正中
  中島鋭治、中島伊平、宮本憲一、門間菫吉、渡辺敬司 (五十音順)
*岡村孝雄氏は大学卒業後、家庭の事情により有吉姓になりました。

 ― 葛藤の日々を過ごしていたのですね。どのように乗り越えたのでしょうか。

有吉 私は迷ったときにはいつも自分の頭でしっかり考える、決してあいまいにしないで生きてきました。京都に来たときは「私は寺に戻らなければならない、私の運命はそう決められている」と言い聞かせていましたが、でも孝雄さんと出会って、彼には「運命は自分で考え切り開くものだ」と言われました。自問自答しながら本堂で本尊さんに「檀家の皆さんにご恩返しできないままお寺を出ることは許されないんじゃないか」と問うと、「どこにいても周りの人が檀家の人だと思えばどこにいてもいい」と言ったような気がしました。私がそう思ったんですけどね(笑)。檀家の人に恩返しする気持ちで周囲の人に接しようと思うと急に気が楽になって、結婚することにしました。どうしたら恩返しできるのか、この思いが、それ以後いつも私の心の中にあり、生き方を貫いています。

 ― 1950年の朝鮮戦争を境に時代は再び戦争へと進もうとする激動の時代ですね

有吉 その頃、孝雄さんと二人でよく話しました。科学的にものをみるというのはどういうことか、政治的な出来事をどう考えるのかなど議論しました。その頃、荒神橋事件が起こりました。事件翌日の大学でのことが忘れられません。私は被服科の短大にいて、和尚さんの着物を縫えなくてどうするんだと悩まされていたのですが、クラスメートの一人が頭に包帯を巻いて和裁の授業に出てきました。すると先生が「あんな所にいって京大生と一緒に運動するなんて、女性として最低です」と言うのを聞いて本当に驚きました。でもその時はまだ十分に頭の整理ができずにいました。でも孝雄さんとよく議論を繰り返し、『ものの見方考え方』(高橋庄治)も読んで、自分の頭で考えること、日本が再び戦争への道に再び踏み出そうとしていることなどを学びました。

<荒神橋事件>
1953年11月6日から京都大学の教室を借りて全日本学園復興会議を開催予定だったが、京大が「教室を貸さない」との方針を出したことから学生が連日京大に押しかけ抗議集会を開催。11日1時から時計台前で4度目の抗議集会を開き、3時に「わだつみの像」を迎え気勢をあげ、大学建物の学生管理などを決議した後、立命館大学での全京都統一大学祭に参加のため荒神橋を西行中、中立売署の警官が阻止しようとし衝突。橋の欄干が壊れ学生11人が10m下の鴨川に転落し重軽傷を負った。その後、中立売署で抗議行動が続き10時半に京都市警が武装警官を出動し発煙筒を投げて解散させ、学生側に数人の負傷者が出た。学生側は高山京都市長に対し地裁に損害賠償の訴えを起こし、1959年に和解し地裁判決通り総額27万円を支払った。

 ― 二人で歩んでいこうと結婚を決められたのですね

有吉 私は寺の長女、彼は山口県阿知須町の酒販店の長男。経済的自立の目途がたたず、長男を生んでしばらくは実家である山口県の酒店の有吉商店で家業を手伝いながら暮らしていました。新聞の販売店もやっていたので配達集金もあり、早朝5時頃には15人ほどの配達の人に新聞の種類ごとにコース分けをして指示を出していました。大八車に一升瓶10本入った木箱を積んで田舎道を配達先の農家さんまで引いて行ったりもしました。帰り路で夕焼けを見ていると涙がポロポロ流れたのを思い出します。
 孝雄さんの母親は宇部市で「文明」という高級ふぐ料理店をしていました。私は両方の店を行き来しながら精一杯働きました。後でふぐ料理店の若女将になり、私が市会議員になるまで月に10日ほど京都から宇部市まで通って女将をしていたんですよ!

 ― えっ、市会議員になるまで女将さんだったのですか? 京都で共産党の市会議員になると聞いてお客さんも驚かれたでしょうね。働きづめの生活から解放されたのはどのようなきっかけだったのでしょうか。

有吉 孝雄さんは田舎に戻ると、いわゆる若旦那ですから麻雀などで帰るのは遅く、明け方になることもありました。朝も起きるのが遅いという日が続いていました。彼も大変悩んでいたように思います。私は先の見えない悶々とした、とてもとても辛い毎日でした。このままでいいのかという悩みがどんどん膨らんできました。そこで、思い切って父に手紙を出して相談しました。父から嫁ぎ先に、夏の臨時保育所の手伝いに娘をお借りできないかという手紙が届きました。

 ― ようやく京都に戻ることができたのですね

有吉 木曽の実家に帰る途中に京都に立ち寄り、島先生と山岡先生に直接お会いすることができました。そこで孝雄さんの仕事を探してみようと言っていただき、お二人の先生にご尽力いただいた結果、人文社会系出版社である有斐閣京都支店の仕事に就くことになりました。そこで孝雄さんだけが先に京都に戻りました。有吉商店とふぐ料理店の女将として一人残されましたが、いつか京都に呼んでくれて一緒に暮らせるという目標ができ気持ちが大きく変わりました。半年ほど過ぎて八坂の塔の近くの長屋で、3畳間を借りて京都での生活がスタートしました。私にとってはお城でしたね。

■京都での新生活のスタートと社会運動への参加

 ― その後子育てをしながら社会運動に参加

有吉 社会運動に初めて関わったのは、1960年に母親大会連絡会が中心となって始めた海外で開発されたポリオ(小児麻痺)ワクチン接種を求める大運動でした。母親たちが署名を持って厚生省に直談判に行ったことを島先生の奥さんが報告に来てくれて、とても感動し確信となりました。その後、子供を守る会に入り、安保問題の学習会やデモにも積極的に参加しました。当時立命館大学があった広小路から学生たちと一緒にフランスデモをした時の光景は忘れられませんね。女性による全国組織の必要性を強く感じるようになったころ、新婦人の会が結成されることになり、その創設者の皆さんから声をかけられたので、すぐに参加し積極的に活動をしてきました。

 ― 共産党の市会議員を7期28年

有吉 1969年に日本共産党の隊列に加わりました。1975年に市会議員候補への出馬要請があった時には家族のこともあり大変悩みました。当時、私の父が京都にある妙心寺派本山の総務部長していた(のちに宗務総長)ので、孝雄さんと一緒に何度か相談に行きました。父は「おまはん共産党員か、市会議員への出馬要請は有難いことや。自分でよく考えて決めなさい。」と言われました。そこで私はもう一度ご本尊に相談し、よし立候補しようとなりました。父は「節子がそう言ってるんだから、孝雄さん協力してやろうやないか」と言って励ましてくれ、様々な援助もしてくれました。

 1975年 市会議員初挑戦のパンフレット(母親大会で発言する有吉さん)

 28年間の議員生活の原点は、檀家の人に恩返しする気持ちで周囲の人に恩返しすること、住民の声、女性の声が世の中を変えることができるということでした。ご本尊に相談しながら常に自分の頭で考え自分の責任で結論を出すことを貫いてきました。
 今でも昔と変わらず夢を描くことが大好きで、一人でいてもちっとも寂しくはないですね。英語は話せませんが、シカゴ・ブルースのピアニストをしている長男のいるシカゴに行ったり、次男がロンドンにいたときも、孝雄さんは海外に出るのが好きではないというので一人で行きましたよ。外国に行くのは大好きです。

 *有吉須美人(すみと) シカゴ・ブルースの著名なピアニスト。2017年「シカゴ・ブルースの殿堂(Chicago Blues Hall of Fame)」を東洋人で初めて受賞しました。