更新!インタビュー
科学者、研究者として
戦後民主主義を生きる
1932-2023

加藤 利三さん

加藤 利三さん

1932年8月19日 富山県西礪波郡戸出町(現・高岡市)生まれ
1945年4月          富山県立高岡中学校入学
1951年3月          富山県立出町高等学校卒業
月          京都大学理学部入学
1955年3月          京都大学理学部物理学科卒
1957年11月          京都大学理学部助手
1965年12月          京都大学理学部助教授
1991年1月          京都大学理学部教授
1996年3月          京都大学停年退職、4月名誉教授
役職                      1980年〜2022年6月:社会福祉法人「樹々福祉会」理事長

インタビュアーは岡田知弘さん(京都大学名誉教授)です。

前編:

Ⅰ 富山県高岡市から憧れた湯川秀樹の京都大学理学部物理学へ

1.子ども時代から高校まで

 ― ずいぶん前に加藤先生とお話をした時、先生とは同郷で高岡中学、私の母校でもある高岡高校出身ということをお聞きし、私の先輩として、話をじっくり聞きたいと思っていました。今日は、時間をとっていただき、ありがとうございました。早速ですが、で大変気になっておりました。どちらのお生まれでしょうか?

加藤 私は1932年生まれで、今年91歳になります。生まれたのは、現在は合併されて高岡市になっていますが、それまでは西砺波郡戸出町(といでまち)です。

 ― 私は加藤先生と同じ西礪波郡にあった旧福岡町(現在、高岡市)生まれです。

加藤 父は青果物を扱う商売をしていて、戦前からかなり手広くやっていました。戦争が始まる頃には北海道や朝鮮にも販路を拡大していました。でも戦争が激しくなり国家総動員法で統制経済になってからは商売ができず、百姓をやっていました。

 当時は「産めよ増やせよ」という国策の時代でもあり、私の家も姉、姉、姉、兄、私、弟、妹の7人兄弟でしたから、上から5番目ということになります。当時は子どもが5、6人という家は珍しくありませんでしたね。

 ― 今から考えると大家族ですね。どのように少年時代を過ごされたのでしょうか?

加藤 小学校6年生まで戸出小学校に通っていました。私が小学校3年生の時(1940年)に太平洋戦争がはじまり、5年生、6年生になると農家への勤労奉仕によくいっていました。

 収穫の終わった田圃へ行って残っている小さな稲穂を拾い集める「落ち穂拾い」などをしていました。ほかにも軍馬の飼料用に草刈りもしましたよ。これを集めて、学校の校庭に持っていくのです。冬になると雪掻きにもいきました。屋根の雪降ろしをすると、雪が道路にうずたかく積もり、2階から出入りすることもありました。

 ― 暮らしぶりはいかがでしたか。食料不足でひもじい思いをされたことはなかったのでしょうか。

加藤 幸い実家は八百屋と農家をしていたので、あまり不自由はしていませんでしたね。

麦を混ぜたご飯を食べることができましたし、麦を製粉すると皮がでますが、それを粉砕して団子を作って食べたりしていました。東京から集団疎開の生徒もたちが福光町のお寺に来ていたのですが、そこへ食べ物などをもって慰問に行きましたよ。

 ― 福光と言えば世界的な版画家である棟方志功も戦時疎開し、54年までここで創作活動を続けていましたね。非常に文化度が高い地域ですね。

加藤 福光には今でも福光美術館分館として、棟方志功が開疎したときに住居を構えた場所に記念館「愛染苑」があります。日本画家の石崎光瑤とともに多くの作品が展示されています。

 ― ぜひ、訪ねてみたいところですね。ところで、当時、国民学校卒業後の進路はどのように考えておられましたか?

加藤 小学校5年生のときに友だちと学校でわるさをして先生に叱られ「何のために学校に来ているのかよく考えろ」と床に何時間も正座させらされました。「わかった者から職員室に来い」といわれ、私は考えて「国のため、君のため、いつ何時でも役に立つ心と身体を鍛えるために学校にきています」と職員室に言いにいったら正座が解除されました。子ども心にそう思っていました。 1941年 太平洋戦争が始まると、尋常小学校は国民学校になりました。

 私は中学校に入って、戦闘機の搭乗員を育成する予科練に入隊しようと思っていました。
 3歳上の兄が予科練に入っていて憧れがありました。でも兄は入隊後1年で訓練中にケガをして、海軍病院に入院していて、敗戦後戻ってきました。ケガをしなければ特攻隊として出撃していた可能性もありました。

【海軍飛行予科練習生】
 第一次世界大戦で航空機による戦闘が重視され、海軍が少年期からの教育・訓練をするために1929年に設けた教育制度。略称「予科練」といわれた。当初は高等小学校卒業者または中学校二年終了程度の学力を有する少年を全国から試験で選抜した。
【国民学校の目的】 (国民学校令第一条)1941年
國民學校󠄁ハ皇國ノ道󠄁ニ則リテ初等普通󠄁敎育ヲ施シ國民ノ基礎的󠄁鍊成ヲ爲スヲ以テ目的󠄁トス

 当時は国民学校を卒業すると国民学校高等科に2年間通って社会に出るか、入学試験をうけて中学校や、工芸学校または商業学校に入るかでした。
近くに高岡中学校と 砺波中学校の2校がありましたが、私は高岡中学校に入学、列車で通うようになりました。その年の8月に敗戦になりました。

 入学してすぐに入校時訓練で1週間ほど陸軍将校が来て、軍事教練ということで訓練させられました。最初、学校のグランドを耕し芋畑にしました。その後すぐに芋畑を埋めてこんどは陸軍のオートジャイロの基地になり、兵隊も学校に泊まり込むようになりました。伏木港の警戒にあたっていたようです。
 戦争が終わると、食料難で再び芋畑にもどりました。

【陸軍のオートジャイロ(ジャイロコプター)】

 ― 加藤先生が学んでおられた後、私も1973年まで学んでいた高岡高校は、高岡工芸高校と並んで建っていました。その間にレンガ一段くらいの境界線があっただけでした。ドラえもんなどで有名な漫画家の藤子不二雄さんたちもそこで学んでいました。藤本さんは高岡工芸専門学校中等部電機科、安孫子さんは高岡中学に入学していました。1933年生まれですから加藤先生の1年後輩ということになりますね。ところで、入学された頃、直接的に戦争を実感するということはありましたか?

加藤 私の近くでは空襲などはなかったのですが、敗戦直前の8月1日に富山市の大空襲があって、その時は高岡から富山市の空が真っ赤になっているのが見えました。伏木港は重要な港でしたが大丈夫でした。でも敗戦になった2、3日あとに川に遊びにった時、グラマン戦闘機が真正面から低空飛行をしてこちらに向かってきて、撃たれるのではないかととても怖かったのを覚えています

 ― 私の母も学校を卒業した後、勤労動員で不二越という軍事工場で働いていたそうで、富山空襲にあって必死に避難したと何度も語っていました。市街地の殆どを破壊しつくした大規模な空襲でした。その2週間後に敗戦を迎えたわけですが、中学に入って4ヶ月後の敗戦をどこで、どのように知りましたか?

加藤 ちょうど川へ泳ぎに行っていたときに敗戦の詔書が読み上げられたようです。家に帰って知りました。母親がえらく興奮していて、アメリカ兵が上陸したら女性は凌辱されるのではと噂が広がりとても不安がっていました。3人の姉は敗戦の時に満州のハルピンと長春(当時は新京と称した)にいましたので、父は心配して毎日、高岡の駅に行って帰って来るのを待っていました。1年後に着の身着のままで帰ってきました。

 ― 学校の中での変化はどのようなものでしたか

加藤 戦時中威張っていた配属将校がいなくなりました。剣道とか武道の先生が幅を利かせていたのですが、敗戦後はしゅんとおとなしくなっていましたね。教科書がなくなって、新聞紙を折りたたんだような即席の教科書になりました。特に歴史の教科書は大きく変わりました。それまでは国史の教科書は「高天原から高千穂の峰に降り—云々」という神話による国の成り立ちを教えられましたが、それが敗戦後は登呂遺跡の話などの歴史に変わり、神様話から遺跡に急に変わりました。そのせいで学校が荒れるということはなかったですね。
 その後、富山県内の学制変更があり、私は出町高校(現砺波高校)に移ることになり、出町に通うことになりました。したがって、出町高校卒業ということになります。

2.京都大学入学 学生生活

 ― 高校時代に京都大学を志望したきっかけは?

加藤 高校時代はバレー部に入っていて、結構しごかれていました。当時は理系、文系に分かれていなくて普通科に通っていました。1949年、高校2年生の時に湯川秀樹博士がノーベル物理学賞を受賞したのがきっかけですね。もともと物理は好きだったのですが、湯川さんの所で学びたいと思い、京都大学を目指し受験勉強に励みました。

【1949年12月10日湯川秀樹 ノーベル物理学賞受賞】

 ― 京都大学は1947年京都帝国大学から京都大学に改称し、49年に新制大学となりました。翌50年には宇治分校が開設されました。一般教養課程を1回生が宇治分校、2回生は吉田分校に分けて学んでいて、3回生から専門の学部生というしくみになっていました。加藤先生が入学された1951年当時は旧制から新制への移行期でしたがどんな様子でしたか。

加藤 当時の京大はまだ左京区の吉田の三高跡の校舎整備ができていなくて、入学すると1回生は基本的に全員が宇治分校で学んでいました。戦争中に宇治火薬庫のあった場所の南部分のところに位置しています。

火薬庫の近くの北門の外れにある農家に下宿していましたが、そこの叔母さんと折り合いが上手くいかなくて、友人が住んでいた黄檗駅の近くの北山寮に移りました。2回生になると左京区吉田の神楽岡の近くに引っ越して、そこに長く住むことになりました。

 私自身はもともと、できるだけ実家に迷惑をかけずに大学へゆく覚悟で進学したので、1回生の頃からアルバイトをやっていましたが、4回生の時に父が病気で亡くなって、一層経済的に自活しなければならなくなりました。1~3回生の頃はアルバイトを多くしていましたね。 一つは大阪の寝屋川市で炭を扱っている小さな会社での夜のバイトでした。顔中真っ黒に汚れて 朝風呂に入って、京都に戻って大学に行くという生活をしていました。当時の授業料は6000円/年でしたからバイトと奨学金で生活費を補っていました。

 ― 

1951年の5月に理学部と医学部の学生により春季文化祭で原爆展が開催されていますね。7月には同学会主催で京都駅前の丸物百貨店で「総合原爆展」として開催され、占領下にあったにもかかわらず、原爆被害を科学的、学術的観点から190枚ものパネルを展示して伝えるという画期的な取組みをしました。その後1954年には水爆展がありましたが、加藤先生はどのように関られたのでしょうか?

「原爆展」の掘り起こしをされていた川合葉子先生(故人)がインタビューで当時を振り返って、原爆展のあとの水爆展については、「プロセスはむしろ、加藤利三さんとか、そういう方が覚えているかもしれないです」と述べていますが。

加藤 学生の自治組織である「同学会」の活動が活発で、各学部自治会の活動も活発でした。同級生の川合葉子(文学部入学後、理学部に転部し物理学科卒業)さんともそこで出会いました。当時から活発に活動されていました。

私の入学した年に原爆展や京大天皇事件がありました。2.3年先輩の皆さんが中心となっていました。私は宇治分校にいたので、原爆展についてはほとんど知りません。でも冬休みみに富山の実家に帰ると、警察が家にいろいろと聞きに来ていたと言われて驚きました。

【原爆展】
1951年5月、京都大学で開かれた「わだつみの声にこたえる全学文化祭」では、医学部および理学部の両学生自治会の企画による「原爆展」が開催された。この時の展示をベースに、より総合的な視点から原爆をとらえる一般市民向けの展覧会を開こうという声が学生の中から起こり、同年7月14日、京都大学の全学学生自治会である同学会は、数百人の学生ボランティアの協力を得て京都駅前の丸物百貨店(京都近鉄百貨店の前身 / 現在のヨドバシカメラの位置。現存せず)で「綜合原爆展」を10日間の会期で開催した。
【京大天皇事件】
1951年11月12日、関西巡幸途上の昭和天皇が京都大学に来学したとき、多数の学生が正門付近に見物に押し掛け、同学会(全学学生自治会)が「公開質問状」の提出を試みたり、群衆が反戦歌を合唱したり、警備の警察官との間で若干の小競り合いが生じた事件

加藤 1954年3月1日にアメリカが太平洋上のビキニ環礁で水爆実験をして、160㎞離れたところで操業していた焼津のマグロ漁船第五福竜丸が大量の「死の灰」を浴び、乗組員23名全員が被ばくしました。

 工学部の応用物理教室で四手井綱彦先生が放射線計測をされていましたので、話を伺いに行きました。理学部の荒勝研究室は、広島への原爆投下後、すぐに医学部の研究者と一緒に現地調査に行った経験をもっていました。その頃、同じクラスの永田忍さんらが水爆展をしようと提案し、クラスの有志で取り組むことになりました。

【水爆展パネル作成】
【メガホンを持って先頭に立つ加藤利三さん】                  

 4回生の時で、これが水爆展にとりくんだ時の写真です(写真)。夜中にみんなでパネルを作って、府立大学のグランド(?)で行われたメーデーの集会に合わせて、グランドの入り口付近に持ち込んで展示会をしました。私は理学部の学生自治会の委員をしていたので、西部講堂の前の広場に集まってみんなを率いてデモに行きました。その写真もあります(写真)。永田忍さんも一緒にパネルを作っていました。永田さんにはずいぶんいろいろなことを教えていただき、お世話になりました。

【水爆展への資金カンパの訴えをする加藤利三さん】

後編:

写真左:京都帝国大学理科大学(理学部)物理学教室の初期の輻射学・放射線学講座の実験室(後に加藤利三さんが所属した講座)。現在は留学生センター
写真右:初期の理科大学の建物。現在は教育推進・学生支援部棟
1897年6月に設置された京都帝国大学は、同年9月理工大学を開設、1914年、理科大学と工科大学に分離、1919年理科大学は理学部となる。

 民主的科学者運動とともに

3.親友、恩人 永田忍さんのこと

 ― 加藤先生も永田先生と同級生だったのですね。私も永田先生とは原発問題等でお世話になりました。加藤先生とはどのような関係だったのでしょうか?

加藤 永田さんには公私ともにお世話になりました。大先輩であり、無二の親友でもあります。京大関係者や京都の民主運動に関わった皆さんの中では、ご存じの方も多いですが。この機会に少し紹介させていただきます。

永田忍さんは1928年に生まれ、福岡で小学生時代を過ごし、その後父親の仕事の関係で大阪に移り住吉中学校3年の時、1943年広島の江田島にある海軍兵学校に入り、1945年10月第75期として卒業予定でしたが、敗戦とともに海軍兵学校は閉校となりました。
 永田さんは海軍兵学校時代では1号1番(序列トップ)で、いずれ連合艦隊司令長官になる言われた逸材でした。閉校時には生徒の郷里への帰還業務の補佐をされたそうです。
 その後郷里鹿児島へ帰り、翌年旧制福岡高等学校に編入学されました。1948年京都大学理学部に入学し、病気休学で一旦帰省し、郷里の鹿児島で馬場量子さんと結婚し、1953年に理学部物理学科に復学されました。その時に私と同じクラスになりました。よく永田さんの家にいって様々な相談にのってもらい、ご夫婦に大変親しくして頂きました。私の家内とは永田さんの紹介で知り合い、結婚しました。公私ともにお世話になりました。

 ― 軍国青年だった永田さんが、思想的に変化し社会変革の立場に立って実践的な活動に関わるようになったのはなぜだったのでしょうか?

加藤 永田さんは生前、海軍兵学校時代のことをほとんど語ることはありませんでした。軍国青年からの脱皮には多くの苦闘があったようです。福岡高校時代の後半から京大入学前後の時期に弁証法的唯物論を学び、思索を深め、多くの論考を書いています。この時期に思想的基盤を確立し科学的社会主義に接近されたようです。京大入学後には1949年の京大看護学校事件にも関わったと聞いています。私は亡くなられた後に残されていた記録やメモを整理し、小冊子として残しました。また2012年に京都大学職員組合OB会が『戦争体験の記憶』という文集を作成しました。10名の研究者の戦争体験と合わせて、永田さんの遺稿「お別れの言葉」も掲載されています。

戦争体験の記憶
http://files.kyodai-union.gr.jp/doc/OB/sensounokioku/120507book.pdf

 ― 学生時代は、どのような方だったのでしょうか。

加藤 いつもクラスの中心でした。いつも論理的で分析的な話をしていました。

4.京都大学理学部学生として

 ― 加藤先生は湯川秀樹さんの講義は受けたことがあるのでしょうか?

加藤 3回生の時に量子力学の講義を受けましたが、湯川さんは黒板の隅にちょこちょこッと書いて板書や話は上手なことはなかったですね。湯川さんの助教授の井上健さんの講義のほうが板書もきれいで話しもわかりやすく、評判が良かったですよ。
 当時デモなど頻繁にあり、クラスみんなで湯川さんの講義の試験を夏休み以後に変更してもらおうということになって、クラス委員をしていた私が代表して湯川さんに頼みに行くことになりました。当時の学生はよく下駄をはいていました。私も下駄履きで、湯川教授室の前まで行きましたが、さすがに下駄履きで入るのは失礼かとおもい下駄をぬいで裸足で入り、「試験を夏休みの後に延期してほしいというのがクラスの希望です」と伝えたら、湯川さんは「君たちは勉強をしたくないのかね!」と一喝され、すごすごと帰ってきた覚えがあります。湯川先生の部屋は物理教室の北館の2階の部屋でした。

【理学部物理学教室】(1930年から1965年)

 ― 当時の物理学科の様子はどのようなものでしたか

加藤 3回生になる前に分属試験というのがあって、試験の成績により各学科の受け入れ人数を振り分けて決めるのですが、当時の理学部2回生には活発な学生が多くいて、学生が中心となって専攻したい各学科の希望調査をし、物理学科希望者が多かったので、自分たちで調整し、物理学科の各講座の受け入れ人数を各教授に聞いて回って調べて、受け入れ可能人数と希望者数がほぼ同数だったので、教室主任に直談判しました。結局36人の学生は分属試験なしで希望通り物理学科に入ることができました。クラスのまとまりは大変良かったですね。

 ― 今では考えられないことですね。具体的には研究室はどのように分かれていたのでしょうか

加藤 当時は実験が4講座、理論が3講座半あり、毎年1講座当たり3、4人の学生を受け入れていました。4回生になると卒業研究のため各講座に分属しました。
実験講座は、光のスペクトルを研究する分光学の講座、マイクロ波などの研究を含む電波分光学の講座、電子顕微鏡などを研究していた電磁気学の講座、および荒勝文策さんの原子核実験講座の4つの研究室でした。理論は湯川研究室、原子核理論の小林稔研究室、物性理論統計力学などの講座と、流体力学を研究する0.5講座の計3.5講座でした。
 これらが後に理工系倍増計画で講座が倍増し、新しい講座ができました。そのため第一教室と第二教室の二つに分かれることになりました。第一教室はどちらかというと古い教授が多く、第二教室は原子核や素粒子などの新しい分野で進歩的な教室でした。よく教室運営でもめていましたね。
原子核実験講座は、中性子物理とか核反応など3講座に増えました。理論希望者にはすごい同級生が沢山いましたね。私は就職のことも頭にあり実験を専攻することにしました。

 ― 大学院ではどのような研究をされたのでしょうか。

加藤 学部卒業の前年の秋に結核を患ってしまい、富山の実家に帰って療養していたので卒業証書は友人が受け取ってくれました。大学院に入り連休明けに大学にもどりました。原水爆実験があり、平和運動も大きく広がり放射能の測定が注目されていた時期で、研究室に行くと早速シンチレーションカウンター用の結晶を作るための実験をすることになり、結晶作りの日々が続きました。シンチレーターの結晶を作るため、タリウムという毒物をヨウ化ナトリウムに混入し、これを電気炉で溶融し、水冷管の先端に種結晶の取付け、これを溶融液に浸し、結晶を成長させ徐々に引き上げ、大きな結晶を作る仕事を2年間続け、論文を書きました。その後、極端紫外線の研究に移りました。当時は、学生の指導といっても具体的指導はなく、テーマを与えられるだけで、自分でやるしかなかったですね。たまに助手の人が相談にのってくれるぐらいです。要はほったらかしですね。その点では非常に自由でした。
 シンチレーター結晶は感度が良く反応が早いので、最終的にはこの実験成果と技術を生かして下京区にある企業(堀場製作所)で商業化しました。

 ― 大学ベンチャー起業家の草分けといわれた堀場製作所創業者の堀場雅夫さんは、京都大学理学部の荒勝文策さんの原子核物理研究室で学び敗戦を迎えたお一人ですが、ご一緒だったのでしょうか。

加藤 私がいた研究室の内田教授が堀場さんと親しくしていて、シンチレーターの結晶を商業化するときには堀場製作所のお世話になったようです。堀場さんの父信吉さんは京大の教授で、お互いに良く行き来されていたようです。

 ― 研究者として歩むというのは何時ごろ決められたのでしょうか。

加藤 修士課程2年が終わった時点で就職することも考えたのですが、希望するような就職先もなかったので、奨学金を受けて何とか自活してやっていこうと思い博士課程に進みました。当時は理工系の倍増が始まった時期で、大学院博士課程1年の7月に助手のポストが空き、最初は教務職員という職で働き、11月になって助手になることができました。給料をもらえるようになって何とか研究を続けることができました。

5.京都大学職員組合 理学部支部などのこと

加藤 1960年に就職してから永田忍さんのご紹介で結婚しました。
助手になってから職員組合の活動にも参加するようになりました。理学部支部は大変活発に活動をしていて、私の先輩の助手も活動していました。当時は教授や役職事務員以外の教員がほぼ全員組合に加入していましたね。

 ― 物理教室は職員組合の拠点でしたよね。組合に入るのはごく普通に自然に加入でしたね。永田先生は当時どうされていましたか

加藤 永田忍さんは病気で時々休学することもありましたが、修士課程終了が私と一緒で博士課程に入ってからは、学術振興会の奨励研究員として名古屋大学理学部の早川幸男先生のところにいきました。早川先生は朝永振一郎さんのもとで素粒子論を学んだ先生です。

 ― 早川先生はその後名古屋大学の総長になられていますね。当時の名古屋大学には坂田昌一さんなど世界的にも著名な理論物理学の研究者がいらっしゃいました。ノーベル物理学賞を受賞された益川敏英さんも名古屋大学の学生でしたね。

加藤 益川さんは坂田研究室にいました。永田忍さんは益川さんと名古屋大学で知り合ったそうです。益川さんは1970年に京都大学理学部に助手となって着任しました。当時益川さんは永田さんと議論すると、いつも負かされて歯ぎしりしていましたね。表情に出るのでわかりやすい人でした。永田さんは名古屋でも、京都に戻ってからも原水爆禁止運動の取組みを粘り強く続けていました。私も何度か京都市内の組合などの学習会にいって、原爆、水爆の話をしてきました。

 ― 益川さんは、京大職組理学部支部の書記長もされていましたね。

加藤 益川さんが理学部支部の書記長をしているときに組合の大会があって、代議員として参加しているときに、一生懸命何か書いているんですね。支部役員をしていた富田君が「何を書いているんだ?」と覗き込んで聞くと、「これは大論文になるんだ」と言っていたそうです。その時に議長から理学部支部の報告を求められると、立ち上がって滔々とと理学部支部の活動報告をしました。この時書いていた原稿が後にノーベル賞受賞論文の基となったと聞いています。

 ― それは有名な話ですね。研究と労働組合活動は両立できるというのが持論でしたし、私も現役時代に京大職組で楽しく議論した思い出があります。一方、永田さんの方は、その後京都大学を離れられましたね。

加藤 永田さんは京大理学部の助教授になっていましたが、学者の地方交流をはかる必要があると言って、自ら進んで宮崎大学に赴任しました。社会運動の面でも個人的にも友人であり恩人でもあります。

 ― 当時久美浜の原発建設問題が起きており、益川さんも若狭、久美浜にも出かけたと言ってました。原発問題に関して当時の理学部の皆さんや日本科学者会議の皆さんが取り組んでいましたが、どのような経過だったのでしょうか。

加藤 当時は永田さんが中心だったように思います。民科(民主主義科学者協会。その後、日本科学者会議)の理学部支部に調査や講演の依頼が来るんです。すると支部活動の中心にいた物理の永田さんや佐藤文隆さんが中心となって調整し依頼に応えていました。

 ― 70年代初頭に、佐藤文隆さんが実行委員長となって日本科学者会議が若狭の原発についてのシンポジウムを開催したりしていましたね。京大経済学部の野村秀和さんが電力会計分析などの報告もしていました。報告の冊子も残っています。

6.研究者としての保育運動への関わり

【赤い実保育園】

 ― 加藤先生の経歴の中に「樹々福祉会」理事長という記述がありますが、永田先生とのかかわりも含めて詳しい話をお聞かせください。

加藤 京大の保育所発端は、私と湯川研究室の女性研究者である坂東昌子さん(愛知大学名誉教授)の二家族です。私が助手時代の1963年に長女が生まれたとき、坂東さんの長女と一緒に当時保育所がなかったので、近くの小児科のお医者さんの所に預けていました。でも保育の実態は大変ひどいものだというのが分かったので、12月末にやめて、坂東さんの自宅で近所の人を含めて4家族で自主保育を始めました。永田忍・量子夫妻からは力強い支援を受けました。1年ほど続け、その間に地域での保育所づくりの運動を始め、京大職組にも保育所づくりの運動を働きかけました。ようやく京大当局も授乳施設の名目で30坪程の施設を作ってくれ、1965年4月に共同保育所を始めました。私の娘は京大保育所に入りました。私は保育所を大きく充実することに努力し、やがて1967年 京都市の認可を受けた「朱い実保育園」となりました。永田量子さんには初代「朱い実 園長」を勤めて頂きました。坂東さんは地域での保育所づくりに力を注ぎ今の修学院保育所作りを成し遂げました。
 一方、病院の看護婦さんのためにも保育所が必要で、1966年、まず知恩院の一室で仮保育を始め、京都大学付属病院の構内にあった和進会館の一部に移り保育を行い、これが「風の子保育園」の出発点となりました。その年9月西部構内に風の子の園舎ができそこへ移りました。

 ― 大学に保育園を作る運動は、その後多くの研究者の研究環境を確立する上で大きな意味を持ったように思います。創設期は、大変な苦労されたのではないでしょうか。

加藤 保育所の体制づくりから関わったので、研究生活と保育所づくりの二足の草鞋の生活でした。当初は中国哲学の重澤俊郎先生には保育園の代表をお願いし、その後1977年に法人認可を受けて社会福祉法人「樹々福祉会」となって、初代理事長になって頂きました。その後、1980年から昨年6月まで42年間、私が理事長をしていました。結局保育関係のことに半世紀余り関わってきました。

 ― 半世紀もかかわっておられたのですね。この間、私の友人たちがたくさん、お世話になりました。話は大きく変わりますが、最近の戦争や核兵器、原発などの状況についてどのような感想を持っておられますか。

加藤 日本の広島、長崎の原爆体験はまだ世界には十分には伝わっていないように思います。今年5月のG7広島サミットでも、ウクライナや核軍縮について話されましたが、あくまで「核兵器による抑止力」を前提にするものでした。

 戦後、原爆の報道はGHQの報道管制で、長い間国民に知らされることはありませんでした。原爆の悲惨な状況は同学会による京大原爆展があって初めて本格的に多くの人に知らされるようになりました。
真実を学び知ることが大切だと強く思います。

 ― 本日は、長時間にわたり貴重な話をしていただき、ありがとうございました。私も初めて知ることが多く、勉強になりました。