Ⅲ部
5.ビキニ事件の衝撃
(1) ビキニ事件と宇吉郎
宇吉郎の提案が否決される2か月余前の3月1日に、太平洋上のビキニ環礁でアメリカ軍が核爆弾の実験を行い、日本の漁船乗組員が被曝するという事件、ビキニ事件が起きます。日本では、3月16日付の『読売新聞』が「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇/二三名が原子病/一名は東大で重症と診断」という見出しで報じられ、国民や科学者に大きな衝撃を与えます。
当時、アメリカ政府は、核実験の情報については何一つ公開しておらず、原爆なのかどうかもわからない状況でした。まずは、東京大学の研究者が焼津に向かい、被曝した第五福竜丸の調査を行いますが、地元の人たちとの関係がうまく行かず、急遽、京都大学理学部で広島被爆地調査を経験した荒勝研究室に所属していた清水榮らが、調査に向かい、地元の協力も得て数多くの試料サンプルを入手し分析しました。清水は、京都大学の医学部をはじめ他学部の研究者とともに、10月末まで徹底的に分析を行い、ウラン237が大量に残存していたことから、ビキニの核実験は、核融合反応による水爆実験であるとの結論を得ます(NHK取材班:2021年)。
一方、当時、アメリカのSIPREで在外研究をしていた宇吉郎は、4月8日付の『毎日新聞』に、「ちえのない人々―“ビキニ被災”をアメリカでみて」と題する文章を寄稿します。ところが、この文章が大問題になってしまいます。
宇吉郎の寄稿文は、反語法や親子の対話等が多用され、彼の真意がどこにあるかが読み取りにくいものになっています。まず、アメリカの新聞を引用し、「水爆実験により第五福竜丸がかぶった『放射能の灰』を日本の科学者たちが分析し、どんな放射性物質が含まれているか、あるいは含まれていないかを明らかにして、それを記者会見で発表した。…貴重な情報を東西冷戦の相手国であるソ連に、あけすけに知らせてしまった」と述べていることを、紹介しています。そして、この記事をもとにした、お酒を飲んだ父親と娘たちとの対話の形で、話が展開されます。父親は、アルコールの力もあるということで、かなり率直な物言いをしています。アメリカ政府は、すぐに放射能をかぶった漁船の船主や乗組員にお金を支払うべきだったが、その知恵がなかった。日本も補償金をもらえばうまく行ったと思うが、その知恵がなく、皆が丸損し、一人の知恵のある男だけが自分の欲しい資料を全部無料でもらっている、と。この会話のなかで、娘たちの方は、「こういう問題を、金だけの問題にして考えるのは、何だかいやだわ」とか、「そろそろ始まった。ゴマ化されないぞ」と批判的な対応をしており、最後は「以上の会話は、一杯きげんの親父が娘どもを相手に、メートルをあげている場面の描写にすぎない。冗談として一笑に付されてちっともかまわない。もっとも、純粋な科学の問題でも、とんだウズの中に巻き込まれるおそれがある。むずかしい世界になったものだという例の一つと解釈されても、それもちっともかまわない」と閉じています。
読者を煙にまくような叙述に対して、4月10日の『朝日新聞』の「天声人語」は、早速「何とも言えぬ非情の文章である。ドルさえ出せば何でもOKという考え方。日本庶民の苦悩に対する高みの見物。水爆と人間の運命について冷たい無関心。たとえ冗談半分にしても、知恵のみあって心なき言葉ではなかろうか」と、言葉厳しく批判しました。当時、民主主義科学者協会の幹部であった日本中世史研究者の石母田正も、宇吉郎の意識は、日本の漁夫はスパイであるという可能性が強いとしたアメリカの原子力委員長の発言や、ドルを貸せば外交で有利な立場にたてると考えているアメリカ下院議員の高利貸し的な「ちえ」と同質であると断定したうえで、「人間の血の乾ききってしまったような中谷博士の『ちえ』、民衆も祖国も忘れた『ちえ』が、一片の随筆の思いつきでないことがすぐわかった」として、前述の北海道大学低温科学研究所へのアメリカ空軍の研究資金導入問題も引き合いに出して、「死の科学と民族の思想」という表題のもとに激しく批判しています(『学園評論』1954年7月号)。
しかし、すでに紹介したように、『毎日新聞』への宇吉郎の寄稿文は、アメリカの新聞報道を紹介する形でアメリカの言論界の報道ぶりを伝えたうえで、娘たちとの対話法によって、ドルで何でも買えるという考え方への批判も表現しているように読めます。決して、「天声人語」や石母田が決めつけているような単純な論述ではありません。また、東西の力の均衡論が世論の主流をなしており、マッカーシー旋風が吹き荒れ、中立の立場さえ許されないなかで、アメリカの軍事機構の一環である研究所で研究生活をしていた宇吉郎が、明快な表現や立場の表明をすることができず、このような文体や切れ味の悪い文章になったのではないかとも想像されます。
ちなみに、帰国した宇吉郎は、この毎日新聞記事をめぐる騒動について、1954年10月の北海道大学理学部教授会に出席して発言し、「中谷教授より曲解された件について弁明があった」という会議録が残されているとのことです(杉山:2015年)。
北海道大学での実験継続ができなくなった宇吉郎は、翌年3月から三鷹市にある運輸省・運輸技術研究所(現在は海上・港湾・航空技術研究所)で、そこで研究していた教え子であり共同研究者であった花島政人の低温実験室を借りて、他の中谷研究室の教え子たちとともに氷雪の結晶についての研究を進めます。当初のアメリカ空軍の研究費を使った雪の結晶構造についての研究であり、その成果を北大理学部の研究紀要に英文で発表するとともに、その抜き刷りを委託先のアメリカ空軍の研究施設に送っています(杉山:2015年)。
その後、理想的な氷雪を常時得られるグリーンランドでの研究も、毎年、調査に出かけて展開していきますが、1962年4月、癌のために61歳で現役教授のまま死去します。
話は、ビキニ事件後に戻りますが、この頃、宇吉郎は新聞や雑誌の求めに応じて、人文科学や社会科学の領域での問題についても、独自の社会評論活動を活発に展開しています。例えば、家永三郎(当時、東京教育大学教授)が『週刊朝日』1955年10月23日号の特集「うれうべき教科書」に寄稿した文章に対して、日ソ中立条約はソ連が一方的に破ったものであるという視点から批判を『文藝春秋』12月号で加えていますが、即刻、家永から史実に基づいた批判ではないと強く反論されています。
また、1955年12月号の『文藝春秋』において、都留重人(当時、一橋大学教授)の論稿を取り上げて、「原子マグロ」問題から始まり日本の経済成長政策についても言及し、「今の四つの島からの生産では、全国民が食っていけない」とも書いています。とくに後者の点をめぐり自然科学者による単純な社会のつかみ方について、都留は経済学者として看過できないという長文の反論を『文藝春秋』1956年4月号に掲載します。都留は、そのなかで、「自然科学者は、自分の専門の仕事については、気が長いが、専門外の問題について発言するとなると、しばしば短気を起こすようだ」と指摘し、人文科学や社会科学分野における研究の到達点を無視して、「常識」という言葉や少ない経験談、データだけで結論を急いでいる宇吉郎の「社会評論」の根幹に関わる点に遡って批判し、自然科学者は自分の発言について社会的責任を自覚すべきだと諭しています。
論争の当事者ではありませんが、自然科学者であり、かつ優れた随筆家でもある池内了は、『中谷宇吉郎集』第7巻の「解説」において、戦後の宇吉郎の随筆について、興味深い指摘をしています。池内は、宇吉郎の研究テーマや随筆の主題を辿りながら、師匠の寺田寅彦と比較して、宇吉郎の場合、「モノ」や「ヒト」についての問題関心が比較的強く、「コト」についての関心は弱いと述べています。そして形而上学的な議論よりも、実験物理学者らしくモノを相手に対話することを好んでいたとしています。さらに、宇吉郎自身が「極めて文学的資質に恵まれ人」であったことから、「モノを詳しく観察して想像を広げるタイプ」であったと述べ、その対象は人間の所業にも適用されたとします。そして「特に、若い頃に書いた文章は、極めて論理的であるとともに、詩情に満ちていて美しい」と高く評価しています。しかし、戦時、戦後の日本政府による名ばかりの「科学振興」と科学への理解のなさ、アメリカでの自由な研究環境とプラグマティズムに影響されて、「中谷はより意識的にモノにこだわり、実用に結びつく研究に重点を置くようになったと考えられる」と述べています。
この池内の見方は、かなり正鵠を射ているといえます。それに加えて、やはり大型実験施設や海外での調査活動を、その財源調達も含めて建設、運営し、多くの研究者や学生・院生とともに共同研究を行うという実験物理学固有の研究体制があったことが大きいのではないかと思います。研究費の調達問題への関心が高いだけでなく、例え軍部や財界から資金を得たとしても、どれだけ自律性の高い研究体制を作るかという点を重視しながら、戦時から戦後を生き抜いてきたのではないかと考えられます。この点は、理論物理学研究者の秀樹と大いに異なる点だったといえます。
(2) ラッセル・アインシュタイン宣言と秀樹
1949年11月、秀樹のノーベル物理学賞受賞が決まります。日本人で初めてのノーベル賞であり、戦災からの復興の途上にあった日本の人々に勇気と希望を与えました。秀樹は、受賞当時、アメリカのコロンビア大学の客員教授でした。1950年夏に一時帰国した際には、全国各地で大変な歓迎を受けます。京都大学では、秀樹の偉業を讃えるために1952年に湯川記念館が作られ、翌年には秀樹を所長とする基礎物理学研究所が設置されます。秀樹が帰国したのは、1953年7月のことでした。
しかし、翌年3月1日に、衝撃的なビキニ事件が起きます(なお、偶然ではありますが、3月4日に、中曾根康弘らが中心となり保守3党の共同提案によって上程された日本で最初の原子力予算が衆議院で可決されています)。戦時中に軍部の原爆研究に動員された経験をもつ秀樹は、ビキニ事件によって宇吉郎以上の衝撃を受けたと考えられます。小沼が紹介しているように、『読売新聞』が同事件をスクープした同年3月16日に、秀樹は以下のような抜き書きを日記に残しています(小沼:2020年)。
「3月1日ビキニ環礁北東約百マイルの地点で水爆実験による真っ白な灰を被ったマグロ漁船第五福竜丸帰港、火傷の傷害を受けた乗組員を診断 水爆症と推定」
そして3月28日に、毎日新聞からの依頼で「原子力と人類の転機」という寄稿文を書き、30日の同新聞朝刊に掲載されたと述べられています。
この記事で、秀樹は次のように述べています。
「私は科学者であるがゆえに、原子力対人類という問題を、より真剣に考えるべき責任を感ずる。私は日本人であるがゆえに、この問題をより身近かに感ぜざるをえない。しかし、それは私が人類の一員としてこの問題を考えることと、決して矛盾してはいない」
すでに、1949年頃には、物理学者のボーアらが警告していた核軍拡競争の危惧が具体的なものとなっていました。1949年にはソ連が原爆を所有するようになり、それに対抗して翌年トルーマン米国大統領は水爆開発宣言を行い、52年からは米ソが相次いで水爆実験を成功させ、アインシュタインは「世界政府」が必要であると訴えるに至ります。
ところが、54年3月1日、世界中からの警告を無視する形で、アメリカは1946年以来核実験を繰り返してきたビキニ環礁での水爆実験を開始し、5月14日まで6回も実験を行いました。これらは、後で判明することですが、その爆発力は、広島原爆の約1000倍といわれ、指定危険水域以外で操業していた第五福竜丸を含めて683隻の漁船が被爆し、457トンの魚が廃棄されました。第五福竜丸の乗組員23名全員が被爆し、久保山愛吉さんは半年後に亡くなります。またビキニ環礁周辺の住民も多数被害に遭ったといわれています(田中正:2008年)。
さて、『読売新聞』がスクープした3月16日以降、被爆した第五福竜丸の乗組員やマグロの検査、とくに重症の久保山さんの治療を急ぐ必要があり、まず東京大学が動きはじめ久保山さんも同大学病院に入院します。一方、現地での調査については当初東大の調査チームが行っていましたが、現地からは広島・長崎の被爆地調査の経験がある京都大学理学部の旧荒勝研究室グループに調査の要請がありました。その中心になったのは、荒勝研究室で広島調査に深く関わっていた清水榮でした。京大チームは、地元の協力を得て多くの試料を大学に持ち帰り、理学部だけでなく、化学研究所、医学部、附属病院、工学部の若手教員とともに、10月まで徹底的な調査・分析を行い、それを英文130頁にわたる「原子核爆発による放射線灰燼」と題する報告書にまとめ、京都大学化学研究所の紀要に発表します(「清水レポート」)。併せて、その内容を、同年11月15日に日本学術会議で、未公開で開催された日米科学者による研究会で報告します(以下、NHK取材班:2021年)。
清水らは、このレポートを全世界の大学、研究所に送り、さらに同レポートの存在を知った科学者や政府からの送付依頼が相次ぎます。アメリカ大使館からも、京都大学総長宛てに、すぐに200部送付してもらいたいとの依頼が来たそうです。
清水レポートによって、ビキニの核実験が水爆によるものであり、それが生体に与えた影響も含めて、科学的に証明されたものであり、世界の人々に大きな衝撃を与えるものでした。その一人に、秀樹がいました。清水は、1995年7月11日付の『朝日新聞』で、インタビューに答え、「ビキニの調査論文を発表した時、隣の研究室にいた湯川秀樹博士が飛んできて、核兵器の問題について一緒に話した」と述べています。
そして、前出のNHK取材班によると、この清水レポートが、マンハッタン計画に一度は参加しながら途中で離脱し、戦後は核廃絶運動をつづけたジョセフ・ロートプラットの手に渡り、その内容がイギリスの哲学者バートランド・ラッセルに伝えられたといいます。ラッセルは、それを踏まえて1954年12月23日にBBCラジオで水爆が人類を死滅に追いやるかもしれないと警告を発していますが、その話のなかに次のような一節があります。
「このような爆弾(水素爆弾―岡田)は、地上近くあるいは水中で爆発すると、放射能をもった粒子を上空に送り、それは次第に降下して、死の灰や雨の形で地表に到達する。アメリカの専門家が危険地帯と信じていた区域外にいたにもかかわらず、日本人漁夫と彼らの捕えた魚を汚染したのはこの死の灰であった。このような死の放射能微粒子がどこまで拡がるかはだれもしらないが、水爆戦争は人類に終止符を打つことが全くありうべきことと、最高の権威筋は一致してのべている。」(中村秀吉訳『バートランド・ラッセル著作集1』)
こうして、ラッセルは、これまでソ連などへの見方で違う意見をもっていたアインシュタインとの手紙のやりとりによって、歴史に残る「ラッセル・アインシュタイン宣言」を、1955年7月9日に発表します。同宣言には、ラッセルやアインシュタインはじめ9名の著名な科学者の署名がありました。そのリストの最後にノーベル物理学賞受賞者として湯川秀樹の名前があります。そして宣言では、次のような決議がなされています(邦訳については、日本パグウォッシュ会議ホームページhttps://www.pugwashjapan.jp/russell-einstein-manifestoを参照)。
決議
私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、つぎの決議に署名するようすすめる。
「およそ将来の世界戦争においてはかならず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続をおびやかしているという事実からみて、私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然とみとめるよう勧告する。したがってまた、私たちは彼らに、彼らのあいだのあらゆる紛争問題の解決のための平和的な手段をみいだすよう勧告する。」
秀樹の教え子であった田中正は、秀樹の生き方が、この宣言への署名を機に大きく変わったとしています。すなわち、戦後の旺盛な社会活動の場が主として文筆活動であったのに対して、「この1955年に始まる、とくに1975年以降の病をおしての湯川の生き様は、まさに戦時下の『知識階級の勇気と実行力の欠如』に対する無言の、身をもってその課題に応えようとした行動と考えざるを得ないほどに、執念と気迫を感じさせる晩年であった」と師を評しています(田中正:2008年)。
最近、秀樹の「生き様」の転機について、より詳細な研究が、やはり秀樹の教え子の一人である大久保茂男によってなされています。これによると、湯川の「行動する科学者」への転機は、もっと早かったといえます。大久保によれば、1954年3月22日に、高知県夜須町立夜須小学校(現・香南市)での湯川秀樹博士胸像除幕式にスミ夫人とともに出席し、そのあと県立城山高校、さらに高知市中央公民館で一般向けの講演を予定していました。3月21日に高知駅に着いた時の記者会見で、高知ではビキニ事件による被曝漁師が多くいたことが問題になってきていたこともあり、記者からはビキニ事件についての見解を求める質問が多く出たといいます。これに対して、秀樹は、「全く関知しないところで私の研究外だ。この問題は答えられない」と回答したそうです。しかし、それから一週間後の3月28日、秀樹は特別寄稿文「原子力と人類の転機」を執筆し、それが30日付けの『毎日新聞』に掲載されます。続けて、『朝日新聞』4月16日付夕刊で、秀樹は「『原爆問題』に私は訴える=もう黙ってはいられない=」という見出しの談話を発表し、水爆実験を強く批判したのです(大久保:2022年)。大久保は、この高知での講演旅行のなかで、湯川の原水爆についての考え方と生き様の「質的変化」があったと論じています。この研究は、多くの実証的材料によって構成されており、きわめて説得的であるといえます。
さらに、秀樹は、55年11月に世界連邦建設同盟の理事長をしていた平凡社の創立者・下中弥三郎の提唱で、ラッセル・アインシュタイン宣言の精神を支持する世界平和アピール7人委員会のメンバーとなり、平塚らいてう、茅誠司らと国内外に活発なアピールを発信していきます。小沼によると秀樹が存命中に発出したアピールは、77点に達したといいます(小沼:2020年)。
1957年7月、カナダの寒村パグウォッシュに、上記宣言の継承と具体化を図るために世界10か国から22人の科学者が集まり、声明を発表します。日本からは、秀樹のほか朝永振一郎、小川岩雄の3人が参加しました。以後、パグウォッシュ会議という名称のもとに、国際会議が続けられていくことになりますが、すでにアインシュタインは他界し、ラッセルも病の床にあったために、宣言の根本理念が忘れられつつあることに秀樹は危機感を募らせていきます。
そこで、1962年5月、京都の天龍寺で、秀樹は朝永振一郎、坂田昌一らと科学者京都会議を立ち上げます。同会議では、谷川徹三、都留重人、宮沢俊義ら人文社会科学者も参加し、核抑止論に傾斜しがちなパグウォッシュ会議参加者の論調に対して、「全体的破滅を避けるという目標は他のあらゆる目標に優先せねばならぬ」というアインシュタインの言葉の重要性を再確認するとともに、戦争放棄を明記した日本国憲法第9条が制定当初にもまして、大きな新しい意義をもつにいたったとする「科学者の平和宣言」を採択します。
秀樹は、すでに1958年5月から、当時の岸内閣が設けた憲法調査会の動きに対して国民的な世論を高めるために、宮沢、我妻栄、南原繁、矢内原忠雄、恒藤恭、大内兵衛といった人文・社会科学者らが中心につくった憲法問題研究会に参加し、ここでの講演をまとめた「日本国憲法と世界平和」という著名な論稿を、『世界』1965年5月号に発表しています。
秀樹は、科学者との共同の平和・核兵器廃絶運動に留まらず、より多くの市民をも巻き込んだ世界連邦建設運動に、スミ夫人とともに、積極的に関わっていきました。それは、アインシュタインの遺言でもあり、世界平和と核廃絶のために、日本の憲法9条の精神を具体化し、世界法に高めることを目指したものであると、秀樹はなんども語っています。そして、1961年から65年の間、世界連邦世界協会第五代会長としての仕事につき、63年には第11回世界大会を東京と京都で開催し、基調講演を行っています。スミ夫人もまた、世界連邦建設同盟会長、名誉会長、世界連邦全国婦人協議会会長を務め、終生、世界連邦建設の必要性を訴え続けました。
秀樹とスミ夫人は、屋良朝苗沖縄県教職員会会長の招きで、日本復帰前の沖縄に行き、教職員だけでなく、市民、学生やこどもたちを前にした講演旅行を二人で行っています。秀樹は、個性を大事にした教育の大切さを語り、スミ夫人は平和の尊さを話したと報じられています。1963年1月のことです。講演の合間に戦跡も訪ね、新聞記者の質問に答え、「二度と戦争を起こさぬよう、努力しなければならない。そういう気持ちをつよくしました。これを収穫といっては言葉がおかしいが、とにかく沖縄へ来てよかった」とスミ夫人は語っています(『沖縄タイムズ』1963年1月18日付)。秀樹の旧宅には、全国の地域、学校からの講演依頼や、御礼状が数多く残されており、日程さえあえば、各地に講演にでかけていた秀樹の姿が浮かび上がってきます。
しかし、この間、秀樹の生活は順風満帆であったわけではありません。よく知られているように、1956年1月に原子力委員会が発足し、秀樹は非常勤委員の一人として就任しますが、正力松太郎委員長による横暴な委員会運営に堪えかねて健康も害したため(神経性の胃腸炎だと伝えられています)、翌57年3月29日に委員を辞職します。また、京都大学や大阪大学の研究者から提案のあった関西における研究用原子炉の設置をめぐって、56年11月に京都大学に設けられた原子炉設置準備委員会の委員長に、秀樹は原子力委員という立場で任命されます。しかし、同原子炉をめぐっては候補となった宇治市で、淀川の水源地に近いことなどが問題となり、住民の反対運動が起きて難航し、秀樹は57年3月に責任をとって辞職します。様々な利害対立が、陰に陽に表面化し、それを議論しながら調整していくという「政治」的な仕事は、秀樹にとっては、大きな心理的負担となり、しばしば健康を害することになってしまったといえます。医師からも、転宅を勧められ、終の棲家となる下鴨神社近くの泉川町の閑静な住宅地にある家を購入し、心を休めるための庭もつくり、1957年に引っ越します。
そのような苦い経験もしながら、秀樹は最期の時まで「行動する科学者」として生きたといえます。秀樹は、1975年5月から8月にかけて体調を崩して入院、前立腺がんの手術を受けます。退院直後の8月28日に第25回パグウォッシュ・シンポジウムが京都市内で開かれ、車椅子で出席し、開会講演「核廃絶への道を求めて」を行っています。その後も、入退院を繰りかえし、1981年9月8日急性肺炎・心不全のため自宅で亡くなります。享年74歳でした。実は、その3か月前にあたる同年6月7日に京都で第 4 回科学者京都会議が開かれました。秀樹は、体力が衰えていたにもかかわらず、出席者を前にして力強いメッセージを述べています。秀樹の絶筆は、この会議へのメッセージともなる「平和への願い」という小文で、小学館の『本の窓』81年夏号に掲載されました。執筆した日付は、6月17日となっていました。
この小文は、「核兵器は悪である。これはなんとしても全廃しなければなりません。世界の平和は『核』によって保たれるものでは絶対にない。平和は『世界法』によって維持されるべきであり、国際間の紛争は『世界裁判所』によって裁かれ、調停されねばなりません」という文章から始まっています。
そして最後を次のように締めています。「核兵器を廃絶し、平和な世界をめざす『世界連邦』構想は、けっして夢ではありません。人類が本当に平和を願い、幸せに生きることを望むかぎり、道は必ず開けると信じます。ひとりひとりが生命を大切にし、賢くあり、そして希望を失うことなく、それぞれの立場で努力していきましょう。この度の『第四回科学者京都会議』の声明を、ひとりでも多くの方が支持され、その活動の輪が広がることを、京都の病床から訴えます」。この秀樹の遺言の意味は、現代において一層重みを増しています。
6.おわりに
ビキニ事件をきっかけに、秀樹と宇吉郎の晩年は大きく異なっていったように見えます。実際のところ、二人の交友関係がどのようになったのか、大変気になるところです。
『朝日新聞』2021年4月9日付の道内版に、「『雪博士』中谷 贈った掛け軸 生誕120年の昨年 旭川の鳥料理店で発見 湯川秀樹との宴席 広間に飾る」という見出しの比較的大きな記事が掲載されました。記事には、1958年11月4日に鳥料理店の広間で撮影された写真と宇吉郎執筆の掛け軸も掲載されており、確かに秀樹と宇吉郎が並んで座っています。『湯川秀樹著作集』別巻の年譜によると、秀樹は10月29日から11月5日にかけて北海道に出かけており、札幌の北海道大学理学部討論会等で講演したあと、釧路、摩周湖、層雲峡を旅して旭川にも行っています。宇吉郎の招きで一連の旅行をしたと考えられます。秀樹の歌集『深山木』にも、この時の旅の印象を9首詠んでいます。そのうちの1首は、以下のようなものでした。
旭川くまなく晴れし秋の日の大雪山の雪煙かな
この3年半後の1962年4月11日に、宇吉郎は帰らぬ人となります。秀樹は、宇吉郎の没後に出版された『中谷宇吉郎 随筆選集』の月報に「中谷さんと私の短歌」という一文を載せて、宇吉郎との交友関係について書き残しました。やはり、1940年の北海道帝国大学での集中講義の際に肺炎となり、中谷家で静養したことが最初に記されています。後半で、宇吉郎の文才に触れながら、次のように述べています。
「文学的な才能が豊かであったことは、もちろんだ。これは一つには、中谷さんが師事された、寺田寅彦先生の影響でもあったのだろうが、寺田先生とはまた違った味をもっておられた。私にとっては、つき合っていて、いちばん楽しかった友人の一人だった」。
これに対して、宇吉郎は、生前、前述の「湯川秀樹さんのこと」(1950年)で、以下のように秀樹のことを賞賛していました。
「同じ物理学とはいっても、私の方は、湯川さんとは全然専門がちがうし、それにあの難解な理論は、全く分らない。それで会っても、いつも物理の話はほとんどしない。いわば道楽の方での友だち関係を、十年来つづけてきているわけである。というのは、少し際どい ところで宣伝をするようであるが、私が南画を描いて、湯川さんが賛をするという、別にはたに迷惑にはならない道楽が、ずっと前からあったからである」。
二人の心を結び付けているものは、道楽としての「文人墨客」の交友の楽しさだったといえるでしょう。物理学をはじめとした難しい話については、あまり突っ込んだ議論をしなかったように推測されます。ただし、同じ「文人科学者」と言われながら、生い立ちも、専門分野も、科学方法論も、学風も、道楽の表現方法も違う二人の会話は、さぞ楽しいものであったに違いありません。
ビキニ事件に対する宇吉郎の寄稿文の真意は解明されているわけではありませんが、秀樹がこの文章を読んで交友関係を断ち切ったわけでもありません。二人のなかでどのような私信のやりとりがあったのか、今後、何かしら史料が発掘される可能性がありますので、注目してみておきたいと思います。
ただ、宇吉郎については、根本的なところで原爆については秀樹と同様の、絶対悪として捉えていたことは確認しておきたいと思います。宇吉郎は秀樹に同調して核兵器廃絶の運動に参加することはありませんでしたが、少なくとも原爆が人類にとって脅威であるという認識は共有していたといえます。
宇吉郎は、敗戦直後の1945年9月に「原子爆弾雑話」という一文を書き、それが『文藝春秋』10月号に掲載されています。そこでは、原子爆弾が開発されるまでの欧米や日本での動きを紹介しながら、次のように述べています。「私は負け惜しみでなく、原子爆弾が我が国で発明されなかったことを、我が民族の将来の為には有難いことではなかろうかと思っている。(中略―岡田) 今回の原子爆弾の残虐性を知ってからは、科学も到頭来るべき所まで来たという気持ちになった」と。まだまだ原爆被害の悲惨さが伝えられていない段階での言説であることに留意したいと思います。
さらに、1950年の自著『花水木』に収められた「未来の足音」という表題の短編では、宇吉郎は「原子力の解放が、人類の文化の滅亡を来たすか、地上に天国を築くか、それは目前に迫った問題である。そしてそれを決定するものは科学ではなく、人間性である。人類の総数の半ばを占め、その上子供を味方にもっている婦人たちが、この問題について割り当てられた任務は、かなり重いといっていいであろう」と、子どもや女性の役割に焦点を当てた記述をしています。核爆弾の開発競争による人類の危機か、原子力の平和利用かという議論が始まりつつあった頃の文章です。
もっとも、戦後の宇吉郎の随想を読むと、前述した池内了の指摘のように、モノに焦点を当てて、それに科学的な視点を与えて啓蒙的に解説し、読者の注意を引きながらストーリーを展開していく作風になっていることがわかります。これに対して、秀樹の場合、老荘思想や西田幾多郎をはじめとする哲学、自然・文化・社会科学分野の読書の蓄積をもとにして、形而上学的な問題をわかりやすく読者に伝え、晩年は核兵器の廃絶や平和のために強く訴えかける文章が多くなっているように思います。そして、秀樹の場合、和歌という独自の表現世界をもっていましたし、晩年は進んでテレビやラジオ、雑誌等を通して、分野を問わず広い分野の著名人との対話を展開していった点も、注目されます。
その秀樹の「文人科学者」としての神髄は、『湯川秀樹著作集 7 回想・和歌』に所収されている作品類と加藤周一による秀逸な解説によって、知ることができます。秀樹は、『禅』252号(1975年)に寄稿した「和歌について」の一文で、自分の和歌は誰に習ったわけでもなく、趣味として、若い時から詠み続けてきたものであるとしています。実際、湯川邸に残された学生時代の雑記帳でも、数式の傍らに、鉛筆で和歌が詠みこまれた箇所がいくつもあり、物理学の研究と和歌の創作は、秀樹にとっては学生時代からともに追求してきたものであったことがわかります。
では、なぜ、俳句ではなく和歌だったのか。自らの問いかけに対して、自分は物理学者であり常に自然と向き合っているが、俳句もまた自然を対象にしているので、「四六時中そんなものを相手にしているのは、やっぱりいやになることがあるわけです」と言い切っています。そして「それとは別なもの、客観性と主観性という言葉で申しますならば、できるだけ自分の主観性というものを生かせる。あるいは知性とか理性というものに対して、人間の感性、感覚、情緒というものを表に出せる、それを生かせるような、そういう活動の場もほしいわけです。そういう気持ちの表現が和歌をつくるという形でときどきあらわれてくるわけです」と自己分析しています。また、「私についても、願わくは私を怪物扱いしていただきたくない、あるいは物理学だけを研究する機械のように思っていただきたくないんです。普通の人間が、たまたま物理学のような学問を好きでやっていることを知っていただきたいのです。/世の中には、一生の間、朝から晩まである一つの学問をやっているという人があるかないか知りませんが、もしあったとしたら、やはりあまり幸福でない人だろうと思いますね」とも語っています。秀樹にとって、物理学と和歌という道は、人間の全人的発達の具体的な姿だったのであり、彼自身がそれを自覚して、追求してきたといえるのではないでしょうか。
そして、この「普通の人間」として生きようとしている秀樹のもう一つの活動領域が晩年の核兵器廃絶運動でした。これについて、加藤周一が、前述の『著作集』第7巻に収録されている「日本のお祭り」(1952年)にある、次の一文に注目しています。
「私自身ももともと孤独癖が強かった。一室に閉じこもって本を読むか、考え事をする方がはるかに有意義だと思っていた。しかし近ごろになって、大勢の人といっしょにぼんやりとお祭りをながめて、皆が何となく楽しい気分になることも決して無意味でないと悟るようになった」。
同じ年の夏、秀樹は滞在先の米国から一時帰国して、京都の夏の祭りを体感していました。加藤は、この引用文について次のように読み込んでいます。「湯川秀樹には、故郷での祭の経験から出発して、あるいはその経験に触発されて、人生の幸福への資格という点ではすべての人間が平等である、という考えが、深く心の底かにあったのではなかろうか。もしそうでなければ、『何となく楽しい気分』が『決して無意味でない』とは書くはずはないだろう。また、もしそうでなければ、彼が見たこともない『大勢の人』を打ちほろぼす核兵器に反対するために、敢えて書斎を出るはずもなかったろう。京都の道は、パグウォッシュへ通じる。湯川秀樹は、有名な物理学者だったから核兵器に反対したのではなく、有名な物理学者と無名の大勢の人の、それぞれの人生の意義は根本的に変らない、と感じたから核兵器に反対したのである」。
この文章では、内気で閉じこもりがちの少年であった秀樹が、物理学研究において大業を成し遂げながら、戦時下での原爆の基礎研究に協力した自らの行動を反省し、戦後、とりわけビキニ事件の後は国内外の「大勢の人たち」に核兵器の廃絶を訴える「行動する科学者」になっていった内心の変化が見事に捉えられているように思います。秀樹の、「大勢の人たち」の心を揺さぶるような言葉づかいと鋭い論理は、国や世代を超えて多くの人々に展望と希望を与えてきました。その背後には、秀樹の心の葛藤を表現していった和歌の世界があったことや、大正デモクラシー期に獲得した人間平等主義や自然主義、科学的合理主義、自由主義の思想が一貫して流れていたことを指摘しておきたいと思います。ここに「行動する科学者」が「文人科学者」でもあったことの必然性があったのではないでしょうか。
【参考文献】
<湯川秀樹関係><中谷宇吉郎関係>
東晃『雪と氷の科学者 中谷宇吉郎』北海道大学図書刊行会、1997年
中谷健太郎『由布院に吹く風』岩波書店、2006年