蜷川虎三と水産
乾 政秀(楽水会編集委員、㈱水土舎最高顧問)

海洋調査部時代

文部省移管反対運動

 蜷川が水産講習所に入ったばかりの1914(大正3)年10月、「水産講習所を文部省に移管する案」が文部大臣より閣議に提出された。この案は他省所管の諸専門学校を文部省に移管するとともに、財政整理案も含まれた案で、閣議決定事項となった。

 これを聞いた大日本水産会、水産同窓会(水産伝習所、水産講習所の同窓会)、水産同志会(水産時事問題の研究を目的とする団体)等の諸団体が連合して移管反対運動に立ち上がった。この閣議決定は教育機関と試験機関の分離を図ることにあったので、分離は今後の水産業の進歩を阻害する恐れがあると判断したようだ。11月13日、在学生200人余は一同退学を決意し、この問題が解決するまでは帰所しないことを申し合わせ、「全員二重橋前に整列、遥に皇居を拝し、陛下の御信任になる政府の命に従うことのできない罪を謝して退散した」10)という。

 様々な方面への訴えや政治工作が功を奏して12月の衆議院で文部省移管は否決された。

 この時に事情について蜷川は、「私の入学は大正3年の9月であったが、間もなく移管問題が起り、生徒達は猛烈必死の運動をやったものである。もちろん私達入学したばかりの生徒に事情がわかる筈もないが、生徒達の決心は、伊谷・川合両先生を押し立てて共に討死しようとするような悲痛のものであったことを覚えている」11と書いた。

クラスメート

 蜷川が入学した当時の水産講習所には、漁撈、製造、養殖の3つの学科があり、入学定員はそれぞれ30名、25名、15名の合計70人であった。蜷川は1917(大正6)年3月に水産講習所を卒業した(第20回卒業生)。同級生の松本友雄によると、「この年から夏の卒業期が春に繰りあがり、僕らが切り替1号の卒業生になった。ここで入学時15名のものが卒業時には僅か8名に減っていた」と書いている12) 養殖科の卒業写真には11名が写っているので(写真2)、このうちの3名は留年組と考えられる。

 蜷川のクラスメートのうち、同窓会名簿(楽水会名簿)で消息が把握できる人の卒業後の職業を簡単に紹介しておこう。

小西芳太郎は府立3中時代の同級生で、一緒に水産講習所に入り、1921(大正10)年から1929(昭和4)年まで水産講習所の技手を務め(東京水産大学70周年史の職員名簿に名前が記載されている)、千葉県庁の水産課にもいた。堀重蔵もやはり卒業後水産講習所の助手に採用され、金沢養蠣実習場時代に妹尾秀實とともにカキの垂下式養殖法を考案、カキ養殖に革命的技術革新をもたらした。その後、東京水産大学の教授、名誉教授を務めている。華族出身の鷹司信敬(1895~1973)は堺市水族館館長などを務め、「水族館」「魚の生態」「魚の観察と飼育」「熱帯魚」などの著書がある。丹治経治は岡山県水産試験場、松本友雄は三重県水産試験場に勤務している。今野壽三郎は多摩川流水養魚の事業主であった。なお、青山錠吉は卒業1ヶ月後に逝去、福島慶造、越石俊雄(朝鮮総督府に就職)、沼田礎助の3名は楽水会名簿で追跡できないため、比較的若くして亡くなったものと推定される。

つまり蜷川のクラスメートの大部分がその生涯を水産研究者、技師として活躍したのであり、京都大学に進学し、中小企業庁長官、京都府知事を7期務めた蜷川はクラスメートの中では異色の存在であった。



 写真2 水産講習所本科養殖科20期卒業のクラスメート(水産研究誌 Vol.12(6)より引用)

 助手時代の海洋基本調査

蜷川は1914(大正3)年7月に入学し、1917(大正6)年3月に卒業しているので、本科の在籍期間は2年7ヶ月であった。これは上述したように1916(大正5)年9月に学期が変更されて毎年4月を以て学年の始めとすることになったことによる。

3月に卒業した蜷川はそのまま水産講習所の研究科に進んだ。蜷川が入学した当時の水産講習所の就学年数は3年、希望する者に対し、研究科を設け就学1年と定めていた。

1年を経ずして1917(大正6)年12月に研究科の学生から助手に採用された。つまり研究科には約半年在籍したことになる。月給は10円札2枚で、助手1人に先生が3人もいたという。京都大学に入学するのは1920(大正9)年9月なので、2年8ヶ月水産講習所で助手をやっていたことになる。

さて助手時代の蜷川は何をしていたのだろう。水産講習所は講習部門と試験部門に分かれていたことはすでに示したが、蜷川は試験部門の助手となり、北原多作(1870~1922)のもとで働いていた。北原は北原式プランクトンネット、北原式採水器などを考案し、わが国の海洋調査の基礎を築いた人物である。なお、影山は、「佐倉57連隊に一年志願兵として入隊することになったが、心臓に疾病があることがわかり、兵役を免除され、助手に復職している」と書いているが、13 実際に入隊したのかどうかは確認できない。


写真3 漁業基本調査報告書(著者撮影)

1907(明治40)年ごろ北原多作は水産発展の基本方針として「漁業を発達させるためには海洋と水族との関係を明瞭にすることが必要であり、水族の生態、海洋の理学的性状および漁況を多年にわたって調査し、その資料を綜合分析して好漁場を判定することが必要である」と主張14、「漁業基本調査」と銘うって海洋及び生物の面から漁業の基礎的調査を行うことになり、1910(明治43)年から開始した。当初は農商務省水産局がこの調査を行っていたが、水産講習所に移管した方が効果的であるとの判断となり、1914(大正3)年4月から北原技師を筆頭に柳直勝、浅野彦太郎が水産局から水産講習所に転勤して調査を担うことになった。

1917(大正6)年には海洋調査事業費が議会を通過し、翌年、水産講習所にその経費が繰り入れられ、水産講習所は技師3名、技手3名が増員となった。そして、①本調査に使用する船舶は天鷗丸を建造し、また、練習船雲鷹丸、漁業取締船速鳥丸、得橅丸を充てる、②測候所等26ケ所に委託し、毎月6回、沿岸海水の水温、比重等を観測報告させる、③各地方水試等は、指定された場所を基点とし距岸50~150浬毎月1回、月初めに横断観測を実施し、海洋調査成績、重要水族の移動および海況の大勢を調査する、④従来各地方で施行していた定時観測は継続し、これらの結果を水産講習所海洋調査部へ報告する、⑤本調査執行上の便宜を図るため毎年1回以上関係機関の打ち合わせ会を開く、ことが決まった。

つまり、蜷川が助手になった直後に海洋調査事業費が増額されたわけであり、ひょっとするとこの予算の増額のおかげで蜷川は漁業基本調査部に職を得たのかもしれない。

そして1919(大正8)年1月から海洋調査部と名称を改め、海洋調査事業が拡大強化されることになった。岡村金太郎、妹尾秀実、中沢毅一、丸川久俊が本事業に参加するとともに、東大の原教授、寺田寅彦が支援した。蜷川はこの海洋調査部に所属した。漁業基本調査部は水産講習所試験部の中のいわば室レベルであったが、海洋調査部に格上げされて、講習部、試験部と鼎立する存在になった。

 多数の調査船を用い、地方水試を動員し、組織的、計画的に大規模な海洋調査を行ったことは、外国にもほとんど例を見ない画期的なことであった。この観測はもともと漁業基本調査が目的であったが、副産物として、黒潮、親潮等の構造、日本海に於ける海流の模様等が明らかになり、わが国の海洋学の発展に偉大な貢献を果たした。若き日の蜷川がこの調査に携わったことはその後の思想形成に大きく影響したと考えられる。

 漁業基本調査は海域に定線を定め、定期的に観測線上で水温、塩分、プランクトン等の定量採集を行っていた。蜷川は観測船に乗り込んで、定期的に日本周辺海域の海洋調査を担当していた。また地方水試からの情報を吸い上げて、「漁業基本調査報告書」(1912~1919)を取りまとめている。同報告書の第6冊(大正7年9月)、7冊(大正8年1月)、

8冊(大正8年3月)に浅野彦太郎、神谷尚志とともに蜷川虎三の名前が出てくる(写真3)

この漁業基本調査を担うために海洋調査船「天鷗丸」が建造された(写真4)。161トンの木造汽船であった。蜷川が助手になったちょうど丸1年後の1918(大正7)年12月に進水し、1919(大正8)年6月に野島崎から金華山の間を処女航海した。

写真4  蜷川が乗った天鷗丸

わが国最初の海洋調査船で、初めて計画的に大規模な海洋観測を行うなど、海洋研究に大きな足跡を残した船である。ちなみに天鷗丸は1924(大正13)年に日本海の大和堆を発見したことで知られる。残念ながら甲板に使用したカラマツの材質が非常に悪く、外板の腐食が予想以上に進んだため、1924年にはわずか5年で廃船になった。

 蜷川はこの調査船に乗って、海洋調査を担っていたのである。魚類学者をめざして水産講習所に入ったが、最終的に海洋調査に従事したことになる。この海洋調査の一環としてプランクトン調査も行われており、上司の丸川久俊はわが国のプランクトン研究の先駆者であったことから、蜷川もプランクトンを採集し、検鏡していたに違いない。