蜷川虎三と水産
乾 政秀(楽水会編集委員、㈱水土舎最高顧問)

経済学への転身と京大進学

蜷川が水産講習所に在籍していた1914(大正3)年7月から1920(大正9)年8月までの6年間は大正デモクラシーの真っただ中であった。そして1917年にはロシア革命が起こっている。

蜷川はすでに助手の立場にあったが、ドイツ語を学ぶため神田一ツ橋の外国語学校専修科(夜間)でドイツ語を学んでいた。おそらく当時の上司であった丸川久俊(1882~1958)が1910(明治43)年から2年間ドイツに留学していることから、海洋学を学ぶためにはドイツ語が必要と考えていたのかもしれない。

1918(大正7)年11月23日、外国語学校に向かう道すがらデモクラシーの論客である吉野作造(当時東京帝大教授、1878~1933)と浪人会(頭山満率いる黒龍会系の国家主義団体)との立会演説会(デモクラシー討論)に出くわす。吉野は「一方では君主民本を説いて浪人会との一致点を求めつつ、他方では朝日の所論がすべて不穏とはいえぬこと、仮に不穏としても暴力制裁は断じて不可であることを冷静に主張していた」15。この現場を見ていた蜷川は「大学教授ってのは、やっぱり偉いな。こいつはひとつ、大学に行く必要があるんじゃないか」16と思ったようだ。

そんなことがあって、専門外への関心が高まるなか、1冊の本が蜷川の人生を大きく変えることになる。回想録では、「海洋調査船に乗って北は金華山沖から南は那覇まで往来し、その間にプランクトンの調査で三浦三崎にある東大の臨海実験所に行きました。そこで、東大を出た理学士と二人で寝ながら、河上肇先生の『近世経済思想史論』を読んでね、いかにプランクトンをのぞいている視野が狭いかをさとったんです」17と書いている。おそらく上述した天鷗丸に乗って定点観測をしている間に三崎の臨海実験所に立ち寄ったのだろう。後に有名人が高校生に送る「心に残る一冊の本」の中で、この本を読んだのは、1920(大正9)年5月6日に三浦三崎にある東大の臨海実験所に滞在した時で、専門違いの「経済学」が急に勉強してみたくなったと書いている(写真5)。

ところが高名な評論家の草柳大蔵にかかると、次のようになる。

「その彼の大学進学を決定づけたのは、河上肇の『近世経済思想史論』である。大正9年5月のことで、折から蜷川は濠州のある島にプランクトン調査に行くことになっていたが、新橋の玉木屋でツクダニを買ってから、島で読む“一冊の本”を探しに丸善に入った。そのとき目にとまったのがこの本である。濠州の島で完読した彼は、日本に帰るとすぐに大学進学を希望した。」18

当時、水産講習所には天鷗丸の他に本格的な練習船「雲鷹丸」があった。1920(大正9)年に行われた雲鷹丸の第21次航海は6月1日~12月13日までの196日間で、南洋のカツオマグロの漁業実習が行われ、この時はポナペ、パラオ、シンガポールに寄港している。豪州のある島には行っていないし、5月にはまだ出港していない。全くデタラメなことが書かれているので、この際、正しておくことにする。

蜷川が助手を辞めて、京都帝大に進学することを告げた時の北原多作とのやりとりを次のように書いている。

写真5  心に残る一冊の本の手紙

 「海洋学で一番えらい北原多作先生は『やめとけ』と。『わしぁ、東大の専科を出て、これまで外国の研究なんかに参加してても、専科出だっていうんで一技師にすぎない。お前も若気のいたりで京大へいっても、帰ってきたら泣くぞ』と、とめられました。でも、あたしゃ『出世するためじゃなくて、河上さんの講義を聞きたいんです』ってがんばった。で、『一年で帰ってくるか』『帰ってきます』ってことになった」19と書いている。

 北原は蜷川のその後の活躍を期待していたのだろう。しかし蜷川が水産講習所を去って2年後の1922(大正11)年に北原は肺炎で在職のまま亡くなっている。

京都帝国大学の経済学部は、政府の学制改革によって、法科大学から分離独立するかたちで1919(大正8)年5月に創設された。蜷川が入学するのはその翌年であった。教授陣は田島錦治、戸田海市、神戸正雄、小川郷太郎、財部静治、河上肇、山本美越乃、河田嗣郎の8名で、進歩派教授が連なり、「大正年間の自由主義時代において、学部の黄金時代を迎えていた」といわれている。

 伊谷以二郎所長

 助手時代の水産講習所の所長は伊谷以知二郎(1864~1937)であった。伊谷は水産伝習所の第1期生で、1917(大正6)年2月に下啓介の跡を継いで第5代所長になった。所長の在任期間は1924(大正13)年8月までの7年半であった。伊谷は退任後、日本勧業銀行参与、そして大日本水産会の第8代会長を務め、現職のまま亡くなっている。

 伊谷は製造科の教授で、養殖科の蜷川は直接教わっていない。上述したように生徒の尊敬と信頼を受けている先生であることを知っていた程度であった。蜷川はちょうど伊谷が所長になった年に助手に採用されているが、これまで伊谷に接するにはあまりにも遠い位置だったという。蜷川は伊谷との関係を次のように記す。

 「朝寝坊の私が時々遅れて所長室に飛び込み出勤簿に印を捺しに行くとすでに先生が事務を執っておられることがあり、恐縮して引き下がる以外に先生と交渉を持ったことがなかった」20

 京都大学への進学を決意した蜷川は、周囲から一度所長に挨拶しておけといわれて、所長室を訪ねた。少々長くなるが、蜷川と伊谷との「人」としての関係やその後の蜷川の生き方がよくわかるのでこの時のやりとりを蜷川の言から引用しておこう。

 「所長室に先生をお訪ねして『こんど辞めさして頂きます』とぶっきら棒に申上げたのである。先生はあの慈愛に溢れた眼を私に向けられて、『ああそうですか』といわれて暫く無言であった。先生に親しんでいない私はこれで御挨拶は終わりかと思ったが、何か私をやさしく労っているようで、御辞儀を一つして飛び出す訳にもゆかない気持ちである。ややあって先生は『何をするつもりです』と問われたのである。それで私は京都の帝大に行って経済を学ぶつもりであると自分の希望を述べたのであるが、どうせまた叱られるであろうと思っていたから実は逃げ腰であった。(中略)ところが先生のお話は私の全く意外とするところであった。いままでは極めて静かであった先生が、何か非常に熱をもっていわれるように私には感じたが、もちろん前と同じ調子で私の希望に賛成され、努力貫徹しなければならぬことを訓へられ、水産を経済の方面から研究することが如何に重要であるかを説かれたのである。実際私はこのくらい感激したことはない。単に自分の希望に賛意を表して下さったというばかりではなく、先生の若い者に対する慈しみとその達識とが百万の味方を得たように私を感激せしめたのである。」20

 伊谷はすぐに京大の山本美越乃教授に蜷川を紹介している。蜷川が大学院に進学すると、この山本教授の指導を受けることになった。大学院生として最初の面会の日に山本教授から蜷川を知っていたことに驚くのだが、伊谷が山本教授に蜷川を紹介していたことを、「いい加減に聞き流し、大学在学中も山本教授を御訪ねせず3年を越してしまった自分のだらしなさを恥ずると共に、先生が如何につまらぬ私の如き者にまで心をもちいられ、而も一言さえそれに就いて口にされないというゆかしさは一寸私どもには出来ないことで感銘したところである」20と記している。


東京海洋大学中部講堂前に置かれている伊谷以知二郎の胸像(著者撮影)

  そして次のように書く。「それから丁度今日まで17年、私が先生から公私共に御世話になったことは到底言葉で現し得ないが、先生の『人間』としての本当の味が幾分でもわかるようになったのは私が大学に勤め、教えることの真似事を始めるようになってからである。子を持って知る親の恩というが、先生の有難さをしみじみと感じるのである。そして先生は私の心の燈火であり力である。もちろん先生の境地に行かれないにしても先生の『人間』の一分なり一厘なりをもつことは大いなる力であり、また先生の御高恩の万分の一に酬ゆる所以であると信じている。」20

  伊谷は、「水産と云えば狂気のように何でもよく世話をする男で、昔の博徒の親分のような男だ」21)と前所長の下が評したように、私心をはさまず水産界を先導する人材を育成することを自らの使命とし、その姿勢を生涯にわたって貫いた、まさに「公平」「清廉」の人だったのである。

京大水産学科を立ち上げた教授陣

「天は二物を与えず」で、蜷川は絵が下手だった。自叙伝で次のように述べている。

 「あたしゃ、いまでもそうですが、図画がだめなんです。水産講習所にいるとき、魚を解剖する前に魚の絵を描くんですが、サバ描いてんのか、イカ描いてんのかわかりゃしない。中学の図画の時間には、ビーナスの像を真ん中に置いて、まわりに生徒がまるくなって描くんだけど、苦手でね。あたしゃ、八海事件の弁護人をした正木旲と同級だったんですけど、こいつが絵がうまいんで、いつも『おれのも描いてくれ』って。『叱られるぞ』『そのときはその時だ』なって」22

 蜷川は水産講習所の助手時代に海洋基本調査に従事していたことはすでに述べたとおりだが、プランクトンネットでプランクトンを採取し、顕微鏡をのぞいて種の同定をしていたと思われる。回想録で「水産講習所にいるとき、プランクトンの新種を発見するって宣言していたのに、とうとう発見できなかったのは残念でした」23と述べていることからも伺える。ところでプランクトンの研究にあたっては、スケッチが基本で、絵が描けなけらば基本的につとまらない。

 したがってもし蜷川がスケッチをそれなりにできたならば、生物学者になっていたかもしれない。そして京都大学の農学部の先生にでもなっていた可能性がある。というのも、戦後、京都大学の農学部に水産学科が創設された時、新学科の教授陣に蜷川の後輩にあたる松原喜代松(魚類学)、川上太左英(水産資源学)、木俣正夫(食品保蔵学)の3人が教授にスカウトされ、赴任しているからである。3人の移動は清水亘教授の推挙により農学部長を務めた近藤金助からの要請だったようだ。

昭和23年4月1日発行の「水講新聞」(学生新聞)には、「京大(水産学科)は水講の弟分」の見出しで、「去る11月22日の本所移転祭に来られた元本所教授松原喜代松博士は大要次の如く語られた。京大に赴任したが新設のため設備不十分で大学の予算の苦しいため非常に不便に感じて居る。今後水講の弟分として、親戚として発展したい」と報じている。松原は京大時代、落合明、岩井保など魚類学の多くの後継者を育てたことで知られている。